写真集『ディア・インディア』(3)旅の本のデザイン

 松田さんのオフィスに行くと、これまで松田さんが制作なさった本をお見せいただき、ひとつひとつの作り方を説明いただいた。
 その中で箱に入った小さな本があった。それは僕もとても気に入っている本で、外側の箱にコンクリートの表面が印刷され、中は海の水平線ばかりの写真が掲載された写真集だった。
 実際にこういう本をつくると、どこにスリップ(書店取引用の札)を入れるのかが疑問で、僕はここに来る前に近所の書店で尋ねてみたのだが、外側にビニールにくるんで貼り付けるしかないという。それには余分なコストがかかる。松田さんにそれを尋ねると、実際にそうしたという。
「それよりも、読者が中の写真集を実際に見られないのがよくなかったね」
 僕はひそかに箱入りもおもしろいと思っていたが、やはりダメなようだ。
 造本は同じでも、カバーの色が異なる本があった。その本はけっこう売れたので、増刷のたびに地の色を変えてみたのだそうだ。なるほど、インクの色を変えるだけでおもしろいバリエーションになるんだなあ。
 さて、うちの本はどうしたものか。僕が持参したラフなアイデアを見て、松田さんはそれに向く紙の提案などを具体的にしてくださった。話をしていると、次々におもしろい本が作れそうな気分になる。僕はこれまでグラフィックデザイナーとデザインの話をしたことはほとんどなく、デザインの話は本当に楽しかった。
 造本の仕方にもよるが、2000円で販売すると通常の本よりも利幅は少ないらしい。赤字にならないようにどう工夫するかは印刷所の知識と経験もかなりの比重を占めるそうで、業界では有名だという印刷会社の方を紹介していただいた。
 それから、とりあえずコストのことは無視して、あれこれアイデアをひねり出してみた。
 それを印刷所の方に見せて意見を聞く。どうやればコストダウンできるかを具体的に聞き、コストの安い方法を取り入れる一方で、あきらめざるを得ないアイデアもあった。
 そういったアイデアを、ここですべてをあかすことはできないが、これまで旅行人が出してきた本とはかなり異なっていることは確かだ。
 カバーの仕掛けも初めてやったアイデアだが、少部数なので、自分たち(つまり僕を含むスタッフ3人)で1冊1冊手を加えて加工する手づくりの本なのだ。だからといって手作り感のあるデザインにしたいわけではなく、つまり・・・、その部分を明かすとネタバレになっちゃうので、実際に見てもらうしかない。この写真集を「旅の本」にする仕掛けがこれなのだ。とはいえ、それほどたいそうなものでもないけど、われわれの手が加わって完成するアイデアなのだ。
 今日はカバー表部分を公開しよう。
 こういう感じになる。

 真ん中の枠の中だけ色が違うのは、カバー写真が透明のフィルムに印刷されており、真ん中の枠の部分が何も印刷されない透明なままになっているからだ。だから下の、本体表紙に印刷された写真が透けて見えているわけ。実はここにかなりのコストがかかった。
 サイズはA5変型版で、縦170mm、横148mm。小ぶりの写真集だ。
 定価は2200円+消費税。10月末〜11月初めの発売になりますので、どうぞよろしくお願いします。
 少部数なので、普通の書店にはほとんど並べることができない。新宿紀伊國屋本店とか、池袋ジュンク堂とか、そういう大型の本店に限られるが、アマゾンから買えるようにできると思います。確実に入手なさいたい方は、旅行人へお申し込みいただくのがベストです。まだサイトのページは設けていないが、発売日が確定し次第ページを作りますので、よろしくお願いします。

写真集『ディア・インディア』(2)苦心惨憺の編集作業

 写真家の写真集を出すのは初めてのことなので、どのように作ればいいのかとまどった。
 最初、写真集なのだから、写真を並べるだけでいいのだろうと考えていた。それなら簡単だ。面倒な校正も必要ない。そう思って、掘井さんから送られてきた写真をページにぺたぺたと貼り付けていった。それをプリントアウトして初校は簡単にできた。
 ところが、それを見ても、あたりまえだが、ただ写真が並んでいるだけ。これではまったく物語が伝わってこない。もちろん掘井さんの写真は素晴らしい。しかし、ただ並べただけでは、その素晴らしさがぜんぜん発揮されないのだ。
 写真集というのは写真を並べただけではだめなのか。他の写真集だって写真を並べただけだろう。そう思いながら、あらためて本棚にある写真集をめくってみる。もちろん写真を並べただけの写真集もある。例えば写真家として高名な作家の写真集は、ひとつのテーマで、これでもかというぐらい分厚く作品を展開していく。
 その一方で、ドキュメント写真の場合は、写真集でもレポートが付帯されていて、文字によって現場の様子が説明される。写真集といってもいろいろな作り方があるのだ。
 僕は掘井さんの写真を眺めながら、どういう構成にすれば写真がもっと生き生きと立ち上がってくるのかを考え続けた。しかし、まったくアイデアが浮かんでこなかった。毎日そればかり考えていたわけではないが、数カ月間ほとんど何も進展しなかった。判型を幾度か変えてみたり、ページ数を変えてみたり、あるいは章だても何種類か考え、そのたびに写真を組み替えてみたりもした。しかし、どうやってもうまくいかない。
 掘井さんも一度は出版をあきらめていた節がある。僕もダメかもしれないと何度も思った。
 このままではもうダメになるので、僕は掘井さんに文章を書いていただくことにした。当時のことを思い出してもらい、メモや日記から文章を組み立てて送ってもらった。その文章を読み、書き直し、削除し、ようやく一つの形にまとまった、ようにみえた。
 だが、それでも満足する本にはならなかった。
 いったい僕は何の本を出そうとしているのか。インドの写真集というテーマでは、漠然としていてまったく焦点が定まっていない。
 旅行人が出すのだから旅の本であるべきだ。この写真集はインドの旅の本でなければならないのだ。だが、どうしたら旅の本になるのか。
 困り果てていたそのとき、一冊の本を目にした。
 「牛若丸」という小さな出版社が出している小さな本だ。
 それは旅の本というわけではない。そこが出している本は、極めてデザイン的で造本が凝りに凝っていた。松田行正さんというグラフィックデザイナーが、自由に独創的にデザインした本ばかりを刊行しており、例えばページがB文字型に断裁された本とか、表紙に不規則な形の穴が開いていたりするような造本なのだ。

 ここに何か突破口があるのではないか。僕は直感的にそう感じた。
 普通このような本は造本にかなりのコストがかかる。それまで旅行人ではこんな造本をやったことがなかったので、いくらかかるのかまったくわからない。ところが牛若丸の本は安いものになると2000円で販売されている。
 こんな凝った本が2000〜3000円で販売できるようなコストで作れるのか。
 そこで、伝手をたどって、牛若丸出版に出向き、松田さんにお話をうかがいにいくことにした。

写真集『ディア・インディア』(1)掘井太朗さんのこと

 今度、旅行人から写真集を出すことになった。『ディア・インディア』という写真集だ。
 FACEBOOKでたまたま見た掘井太朗さんという写真家の、インドの写真に心をひかれ、写真集を作ってみようと考えたのだ。

 掘井さんは石垣島に住んでいる。職業は写真家ではなく陶芸家だ。1963年に兵庫で生まれ、子どもの頃から『十五少年漂流記』や『ガリバー旅行記』を読んで、旅行に強い憧れを抱いていた。そこで世界中を旅してまわれると思って船乗りになる。貨物船の甲板員として働いたのだ。
 22歳になってインドやヨーロッパをめぐるおよそ2年の長い旅に出る。まだこの時点では写真家になろうとは思わない。帰国後、長野のキャンプ場で一夏働いたあと、さてどうするか考えた。
 選択肢は2つ。ログビルダーか写真か。
 ログビルダーは田舎暮らしにも憧れていたからだそうだ。その一方、写真をやれば旅ができるかもしれないとも考えていた。さらに、旅行の最中にオーストリア写真屋でプリントしたネパールの写真を、写真屋から上手だねとほめられたことが強く印象に残ったからではないかと彼はいう。些細な言葉がその後の人生を左右することもあるという一例だ。
 田舎暮らしか旅かで迷った結果、旅を選択した掘井さんは写真学校に行き、中退してまた旅に出る。ニューヨークでマグナムなどに写真を持ち込んだものの採用されず、帰国後、日本の出版社を数社まわったが、やはり採用にはならなかった。
 実は、その旅の最中にデリーのハニーゲストハウスで僕と出会っている。僕はぜんぜん覚えていませんが。それで、凱風社の話を聞いて、インドの写真を凱風社に持ち込んだが、ここでもアウト。何が撮りたいのか自己アピールが足りないと凱風社に説教をくらったようだ。お気の毒に。
 1994年に再びインドへ向かう。そこで現在の奥様と出会って帰国後に結婚。翌年には長女が誕生し、さてこれからどうするのか、掘井さんは考えた。
 この写真集に出てくるのだが、掘井さんはインドで家族が砂漠を戻っていく情景を、懐かしさと寂しさを感じながらシャッターを切っている。それまで人の人生、他人の生活をカメラで撮ってきたが、自分の生活は何なのだと感じたという。これからは自分の生活をしたい。そう考えた掘井さんは沖縄へ向かう。かつて日本中を旅していたころに、もっとも心に残ったのが沖縄だった。いつかは沖縄に住みたいという思いが心の中にあったのだ。以前あった田舎暮らしの夢がここでかなうことになるのだ。
 もう人に使われて仕事はしたくない。そう思った彼には、ふたたび2つの選択肢があった。
 農業か陶芸か。
 農業は人に使われず、自立して生活できる。
 陶芸は、小学生のころ、粘土細工が上手だねと学校の先生にほめられたことが強く印象に残っていたからではないかと彼はいう。ここでも大人の些細な一言が人生を左右することが証明されている。
 とはいえ、それまでまったく陶芸には興味がなく、もちろん知識も何もない。農業の片手間に陶芸をやろうと考えていたのだが、奥様に、陶芸の片手間に農業をやろうといわれてそうなったそうだ。昔の先生の言葉より身近な妻の言葉は強い。
 その後、2007年にまたインドへ行く。12年に一度の大祭クンブメーラの撮影のためだ。どうしてももう一度これを撮って形にしたかったと彼はいう。その写真も、もちろんこの写真集に収められている。
 その彼が、写真の整理を兼ねてか、たまたまフェイスブックに載せた写真を僕は見る。フェイスブックで友達リクエストをもらったとき、デリーで会ったことがあると掘井さんに説明されたが、ぜんぜん覚えていないので初対面とほぼ同じである。
 何の因果か、このような出会いと再会を果たし、僕は掘井さんの写真集を出すことになった。
 次回は、その写真集を作り上げる話を書いてみたい。


追記】掘井さんからメッセージが届きました。1989年のことですかね。
 ハニーGH(のちのウッパハールですか)のドミトリーに逗留していたとき、誰かが、パヤルにゴーゴーインドの蔵前さんが泊まっていると言ったんです。
 するとその夜、蔵前さんがハニーGHにふらりと遊びに来られたんですね。(そこまでは憶えてらっしゃいますか?)
 5、6人の日本人旅行者が蔵前さんを囲むかたちで、しばらくして(7文字削除)と記憶しています。
 そしたら蔵前さんがその一人一人に、日本では何しているの? って聞いたんですね。学生です、とか何なに・・・と、自分の番になって、写真をやってますと答えました。そしたら、凱風社を紹介していただいたのです。
 まあ、それだけの事でして、蔵前さんのハニーGH滞在は一時間くらいじゃなかったでしょうか。
 そのあと、アフリカに向かうと仰っていたのを覚えています。

空き家探し

 先日、友人の貸家を探しに、山梨の山の村を訪ねた。
 そのひとつ、10件ほどの集落は今は無人になっていて、墓だけが真新しかった。最後の住民が引っ越してまだ間もないのだろう。数軒の家はまだ状態がよく、すぐにでも住めそうな雰囲気だったが、周辺の方の話によれば、冬は除雪車も入らず、雪で行き来がまったくできなくなるらしい。眺めのいい場所だったが、雪で孤立する場所には住めそうもない。
 他にも空き家をあちこち当たってみたが、なかなか貸してくれる家はない。誰かが住んだほうが家にもいいのは家主もわかっているのだが、それが簡単ではないらしい。
 家主が亡くなっている場合、相続権を持つ人が何人もいる。それが日本中に散らばっていることもあり、貸すとなると小さいながらも利益が発生するので、そういった人々の了解を得なければならないのだ。わずかな貸し賃のために、そんなめんどくさいことは誰もやりたがらない。当然だ。そして家に残された荷物を誰がどう処分するのかも決まらない。勝手に処分はできないのだ。
 そういえば、福島でも地震の後の復興のために、壊れた家をなかなか撤去できずに困っている地方自治体があった。役場で家の相続人を調べ上げ、数年かけて日本中の相続人からハンコをもらったといっていた。そういう問題が日本中で発生しているのだ。
 だから、人に貸すのをやめて、お盆、あるいは月命日の墓参りに寝泊まりするのに、今も少しだけ使っているという人も多かった。そういう家はよく手入れされている。
 公共機関の空き家バンクに登録して売却・賃貸ができる家は、まだ幸運な方だったということが初めてわかった。




『親の介護、はじまりました』(堀田あきお&かよ)を読む

 老いた親の介護はほとんどの人が一度は通る大問題。老齢化社会になった日本で、多くの人々が直面することだ。そうはいっても、実際にそのような局面にあたらないと具体的な問題も見えず、どういうことになるのか想像さえ付きにくい。
 この本は、突然母の介護問題に直面した著者の堀田さんたちが、自分たちの介護体験をユーモラスに描いた作品だ。ほぼ実話であろうと想像するが、仕事を抱えながら母の介護のために足しげく実家と病院に通う彼らの介護体験は、やはり苦労の連続だ。
 実際にやったものでないとわからない具体的な介護体験が描かれているので、今後このような状況に置かれるかもしれない読者(僕もその一人)には参考になることがいろいろ描かれているし、なにより介護ということが具体的にイメージできることが助けになると思う。
 さて、以上のことは、いわばこの本の骨格のようなものだ。たぶんそれだけだったら、僕はこの本を読み進むことはなかっただろう。この本のおもしろさ―――介護に無関心な方が読んでもおもしろく読める(かもしれない)ところは、ひとえにこの作品の強烈な登場人物にある。
 それは介護されるご本人である堀田さんの母と、同居する父のお二方だ。小さくて気が弱く、認知症が進みつつある母と、わがままで気が利かない乱暴な父。この二人の生活を読むだけではらはらどきどきの連続だ。
 僕はずいぶん前に両親を亡くしているが、生前の姿を見ていて、仲むつまじい老夫婦などという幻想は抱かなくなった。義父も数年前に亡くなり、義母の面倒を妻が行っているが、年々老いていく義母の様子を見ていると、老いは性格を丸くしたり、穏やかにするとは必ずしもいえないということも薄々はわかっている。
 だが、それでも堀田さんちのご両親には驚きの連続だ。母親はともかく、父親の方は言語道断である。僕も晩年の父親にはずいぶん泣かされたが、このお方に比べればうちの父はいくぶんまともだったとさえ思える(死んでから時間がたったせいもあるだろうが)。
 介護の必要な母親のことはいっさいおかまいなしで、自分の好きなように暮らし、世話はまったくしない。母親はもう硬いものは食べられないのだが、父親は自分の好きなものしか買ってこないので、食事も満足にできない。そこで介護ヘルパーに柔らかい食べ物を持ってきてもらうと、なんとそれを父親が食べてしまうのだ!
 他にもこれに類するエピソードが次々に出てきて、こんなやつがいていいのか。てめえ何考えてるんだ! と思わず漫画に向かって叫んでしまうほどである(いや作品の中でも著者のかよさんが叫んでますけどね)。この強烈な父親と、これまた個性豊かな母親が織りなす老夫婦のドラマは、人生の終末期が決して穏やかなものにならないことを示してくれる。悲しいかな、それが人間なのか。
 そういったなか、認知症が進む母親が見せる人としてのプライド、人生の喜び、怒り、悲しみを受け止める娘のかよさんはこう思う。
「お母さんの人生って何だったのだろう。お母さんは今まで幸せを感じたことがあったのかな」
 でもお母さんはかよさんにこう答える。
「私の人生はこれでよかったんだよ、あんたが生まれてきてくれたからね」
 母の人生とはいったいなんだったのか。
 僕の母が死んでから17年たつが、今もときどき考えることがある。
 僕の母は幸せだったのだろうか。
 不幸だったとは思わないが、つらいことも多かっただろう。
 僕は母とこんな親密な言葉を交わしたことはないが、もし尋ねたらこう答えてくれただろうか。
 そして気がつくと、母が亡くなった年齢まであと10年。ひたひたと人生の終末が迫っている。

地図のこと

 長い間しまいっぱなしだった古い資料や地図などを処分している。旅行人でガイドブックなどを制作するための地図ではなく、僕の、取材や個人的な旅に使った地図なのだが、それでも長年のあいだに箱いっぱいどころか、書棚やファイルのあちこちにさまざまな地図が保存してあり、ほとんど未整理にままなので、結局のところ、こういう古い地図が再度役に立つということはほとんどなかった。

 さて、その地図の箱を開けたら、初めてインドを長く旅したときに使った地図が出てきた。そこにはおよそ1年半の旅のあいだにたどったルートが描かれていた。気分次第で目的地を決めていたので、ルートは脈略がなく無駄が多い。旅行人を始めてからは期間はほぼ1カ月で、それも取材だったので、こんな無駄なルートでまわったりはしなかった。昔は一ヵ所にいたいだけいられたから、本当に旅はほぼ無駄なことばかりだった。それが楽しかったのだけど。
※地図の画像はかなり大きく拡大して見られます。

 その次の地図は、1984年、初めて中国を旅したときのもの。この地図は中国で買った。3カ月の割に移動距離が長い。この時代は旅行者が入れる地域がまだ限られていて、行けるところはめいっぱいまわろうとした(が、力尽きた)。

 当然といえば当然だが、旅をするまでは地図などほとんど興味もなく、実際に使ったこともなかった。せいぜい町の地図で初めての仕事先に行くぐらいだったが、旅に出ると、いやおうなく地図をにらむ時間が多くなる。
 インドで使った地図は、たしか日本から持参したものだが、幹線道路や支線などのちがい、あるいは町のおおよその規模がわかる程度だった。地図とはそういうものだろうと、このときの僕は考えていたのだが、その認識が大きく変わったのは、アフリカへ行ってミシュランの地図を使い始めたときのことだ。
 今の日本人の多くは、ミシュランといえばレストランガイドがピンとくるだろうが、僕はこのとき(1990年)タイヤメーカーのミシュランしか知らなかった。タイヤメーカーのミシュランが地図なんか作っているのかと意外な気がしたものだ。
 だが、そもそもはタイヤを売るために、自動車にもっと乗って欲しくて、レストランガイドや地図を製作したものらしい。それだったらたしかにつじつまが合う。
 それで、そのミシュランの地図を見るとガイドブックのような情報がそこに載っているのだ。道路は舗装路、未舗装路、建設中、風景のいい場所、雨季になると通れない場所まで記載されている。ホテルやレストランがある町かもわかるし、キャンプ場も載っている。地図1枚でこれほどいろいろなことがわかるのかと驚いたものだった。

 もっともそれは、情報が少ないアフリカの旅だったせいだろう。アフリカでなければキャンプ場の場所など必要ないし、町にはホテルやレストランなどあるのが当たり前だからだ。インドでこんな情報をいちいち記載していたら、地図はホテルとレストラン情報で埋め尽くされてしまう。しかし、アフリカの旅でミシュランの地図ほど頼りになるものはなかった。
 そのような思い出の詰まった地図もろもろを、このたび一気に廃棄してしまうことにした。捨ててしまうと記憶からも消えてしまうだろうが、持っていても再び見ることはないだろう。使うのなら新しい地図の方がいいし、今やスマートフォンタブレットに出てくる地図を見ると、GPSによって現在位置がわかるのだから、もうそろそろ紙の地図の時代も終わりだろう。
 それでも紙の地図を広げて、ぼんやり眺めるのは楽しいものだが、僕としては、地図をぼんやり眺められるような旅をまたしなくちゃなと思う。まあ、また紙の地図を現地で買うことになるんだろうが。

僕の高校時代──1971〜1975(13/完)サクラ咲く

 神に祈りは通じた。
 待ちに待った合格通知が郵便で届いたのである。
 父や兄からは、補欠に入ったのなら、まず間違いなく合格だろうといわれていたが、世の中何が起きるかわからない。不安におののきながら合格通知を待っていたのだが、本当に届いたときは、うれしいというより、どっと安心した。終わりかけた世界がいきなり復活して花が咲き乱れた気分である。
 もちろん補欠で十分である。入ってしまえば同じことだ。最低の準備で最小の勝利を得るという最大効率の受験作戦が奏効したわけだが、この作戦がこれほど心理的につらいものだということは計算外であった。
 こうやってあとでふりかえると、教師も僕も無理だと考えていたのが、結局のところ父の思惑通りになってしまったわけだ。父よ、あなたは正しかった。だが、僕は本当に苦労した。その父も、息子どもをさんざん困らせて18年前に他界した。
 これで僕の長い長い、とてつもなく長かった受験生活は、すべて完壁に終了した。3カ月間の受験生活という意味ではない。僕の受験生活は、高校受験から、いや中学受験から始まっていたといってもよい。もう二度とごめんだ。金輪際、死んでも繰り返す気はない。勉強もしない。正確には、進級するための最低限の戦略的勉強はするが、それ以上の勉強はしない。僕はそう決めていた。
 というわけで、その後の人生では、避けられるテストは極力避けて生きてきた。おかげで自動車の免許でさえ40代半ばになるまで取得しなかったほどである。ろくに就職試験を受けなかったのも、このときのトラウマのせいかもしれない。
 だいたい有名私立である慶応だったら、法学部だろうが経済学部だろうがどこでもかまいませんという態度で受験しているのだから、実は初めからまじめに勉強する気などないのだ。江川を入学させたほうが、大学の将来のためにはよほど正しい選択だったかもしれない。
 いや、僕だけではない。当時の世の多くの受験生が、何を学びたいかではなく、いかに有名大学に入学できるかに腐心しているのが実情だったのだから、質の悪い大学生が多くなるのも当然である。
  そもそも就職試験もろくに受けないのだから、それじゃいったい何のために苦労して有名大学に入ったのだということになる(そんなアホは漫研友人以外にあまり知らないが)。
 だが、そんなことはもうどうでもいい。こんなのを入学させるもさせないも大学の勝手だ。だからこそ僕は入学できたのだ。法学部という学部に学究の徒としての夢や希望を抱いて入ったわけではなく、もちろん司法試験を受けて弁護士になろうとか、裁判官になろうとか考えていたわけではさらにない。鹿児島から脱出するためには、大学へ入学することが、自分の取りうる唯一の現実的な手段だった。
 そして、誰からも干渉されない自由を手に入れることが、僕には何よりも必要だったのだ。ようやくその自由を手に入れた。これからは心おきなく、自分で選び取ったことだけをやっていける。ようやく自分自身の人生が始まるのだ。そう思うと、うれしさで心が爆発しそうだった。
 余談だが、僕の出身高校は九州大学への合格率が非常に高い高校として知られていた。だが、九州大学でわが高校の評判はあまりよくなかったという。なぜなら、わが高から九州大学に入学した学生は、異常に落第率が高かったのだそうだ。きびしい高校生活から解放され、大学に入るとぜんぜん勉強しなくなっちゃうんですね。だからぼろぼろと落第した。もちろん僕もぜんぜん勉強しない極めつけのアホ学生だった。
 大学に入ると、すぐに漫研に入部した。
 そこで先輩が僕にこういった。
「蔵前、いいか。試験はな、1つのAより3つのCだ」
 つまり最優秀成績Aを獲得するヒマがあったら、及第点すれすれのCを数多く獲得して、漫画を描けということである。これが漫研の格言だそうだ。なんて素敵なクラブなんだろう。
 先輩は、ノートがある課目、簡単にCが取れる課目、卒業論文なしでも単位をくれるゼミなど、さまざまな知恵を僕に授けてくれ、ますますアホ学生への道を突き進んでいったのだった。おかげで大学はなんとか4年と1カ月で卒業した。
 親に多額の金を仕送りしてもらって、贅沢な学生生活を満喫できたのだから、感謝こそすれ恨む筋合いではない。
 しかし、休みに実家に帰るたびに父と口喧嘩し、苦労して東京の大学まで出してやっているのに、まったくおまえはなんでそう反抗ばかりするかと父からはいつもいわれたが、そこに行けといったのは父ちゃん、あんただと反論した。
 僕がやるべきことを、父はつねに独断で決めてきた。たぶんこれは僕の父だけでなく、この時代の父親というのは多かれ少なかれそのようなものだったろう。だから反抗期の波は強烈に高くなる。

 さて、長い話もいよいよこれでおしまいである。最後に、20代終わり頃に起きた奇妙な夢の話をして終わりにする。
 実は、僕は高校卒業後も、しばしば高校生活の悪夢に悩まされていた。自分では楽天的な人間だと思っているし、特に悩みがあるわけでもないのに、ときどき高校の授業やテストが夢に出てきて、みじめな点数しか取れずに教師にきびしく叱責されるという夢を見るのだ。もうサイテーという気分で目覚めたものだった。それが高校卒業後、何年も続いた。
 それがいつだったかよくはおぼえていないのだが、ある夢でまた高校の授業が出てきた。僕の最も苦手だった教師が、理不尽なことで僕を叱責していた。
 いつもであれば、絶望的な気分のまま夢が覚めることになるのだが、その夢で僕は初めてその教師に反論した。
 先生のいっていることはおかしい、納得できません。
 教師は「何を生意気なことを」とさらに怒る。
 僕は、「うるさい!」と教師にいって教室を出て行ったのである。
 そして目が覚めた。
 それ以来、二度と高校時代の悪夢に悩まされることはなくなった。

=======================================================
 最後までお読みいただきありがとうございました。初めにも書いたが、この話はある雑誌のエッセイ用に書いたもので、ボツになって眠っていた原稿です。それに若干加筆して掲載しました。
 この話の続編にあたるのが、『あの日、僕は旅に出た』(幻冬舎)です。こちらもぜひお読みいただければ幸いです。

あの日、僕は旅に出た

あの日、僕は旅に出た