写真集『ディア・インディア』(1)掘井太朗さんのこと

 今度、旅行人から写真集を出すことになった。『ディア・インディア』という写真集だ。
 FACEBOOKでたまたま見た掘井太朗さんという写真家の、インドの写真に心をひかれ、写真集を作ってみようと考えたのだ。

 掘井さんは石垣島に住んでいる。職業は写真家ではなく陶芸家だ。1963年に兵庫で生まれ、子どもの頃から『十五少年漂流記』や『ガリバー旅行記』を読んで、旅行に強い憧れを抱いていた。そこで世界中を旅してまわれると思って船乗りになる。貨物船の甲板員として働いたのだ。
 22歳になってインドやヨーロッパをめぐるおよそ2年の長い旅に出る。まだこの時点では写真家になろうとは思わない。帰国後、長野のキャンプ場で一夏働いたあと、さてどうするか考えた。
 選択肢は2つ。ログビルダーか写真か。
 ログビルダーは田舎暮らしにも憧れていたからだそうだ。その一方、写真をやれば旅ができるかもしれないとも考えていた。さらに、旅行の最中にオーストリア写真屋でプリントしたネパールの写真を、写真屋から上手だねとほめられたことが強く印象に残ったからではないかと彼はいう。些細な言葉がその後の人生を左右することもあるという一例だ。
 田舎暮らしか旅かで迷った結果、旅を選択した掘井さんは写真学校に行き、中退してまた旅に出る。ニューヨークでマグナムなどに写真を持ち込んだものの採用されず、帰国後、日本の出版社を数社まわったが、やはり採用にはならなかった。
 実は、その旅の最中にデリーのハニーゲストハウスで僕と出会っている。僕はぜんぜん覚えていませんが。それで、凱風社の話を聞いて、インドの写真を凱風社に持ち込んだが、ここでもアウト。何が撮りたいのか自己アピールが足りないと凱風社に説教をくらったようだ。お気の毒に。
 1994年に再びインドへ向かう。そこで現在の奥様と出会って帰国後に結婚。翌年には長女が誕生し、さてこれからどうするのか、掘井さんは考えた。
 この写真集に出てくるのだが、掘井さんはインドで家族が砂漠を戻っていく情景を、懐かしさと寂しさを感じながらシャッターを切っている。それまで人の人生、他人の生活をカメラで撮ってきたが、自分の生活は何なのだと感じたという。これからは自分の生活をしたい。そう考えた掘井さんは沖縄へ向かう。かつて日本中を旅していたころに、もっとも心に残ったのが沖縄だった。いつかは沖縄に住みたいという思いが心の中にあったのだ。以前あった田舎暮らしの夢がここでかなうことになるのだ。
 もう人に使われて仕事はしたくない。そう思った彼には、ふたたび2つの選択肢があった。
 農業か陶芸か。
 農業は人に使われず、自立して生活できる。
 陶芸は、小学生のころ、粘土細工が上手だねと学校の先生にほめられたことが強く印象に残っていたからではないかと彼はいう。ここでも大人の些細な一言が人生を左右することが証明されている。
 とはいえ、それまでまったく陶芸には興味がなく、もちろん知識も何もない。農業の片手間に陶芸をやろうと考えていたのだが、奥様に、陶芸の片手間に農業をやろうといわれてそうなったそうだ。昔の先生の言葉より身近な妻の言葉は強い。
 その後、2007年にまたインドへ行く。12年に一度の大祭クンブメーラの撮影のためだ。どうしてももう一度これを撮って形にしたかったと彼はいう。その写真も、もちろんこの写真集に収められている。
 その彼が、写真の整理を兼ねてか、たまたまフェイスブックに載せた写真を僕は見る。フェイスブックで友達リクエストをもらったとき、デリーで会ったことがあると掘井さんに説明されたが、ぜんぜん覚えていないので初対面とほぼ同じである。
 何の因果か、このような出会いと再会を果たし、僕は掘井さんの写真集を出すことになった。
 次回は、その写真集を作り上げる話を書いてみたい。


追記】掘井さんからメッセージが届きました。1989年のことですかね。
 ハニーGH(のちのウッパハールですか)のドミトリーに逗留していたとき、誰かが、パヤルにゴーゴーインドの蔵前さんが泊まっていると言ったんです。
 するとその夜、蔵前さんがハニーGHにふらりと遊びに来られたんですね。(そこまでは憶えてらっしゃいますか?)
 5、6人の日本人旅行者が蔵前さんを囲むかたちで、しばらくして(7文字削除)と記憶しています。
 そしたら蔵前さんがその一人一人に、日本では何しているの? って聞いたんですね。学生です、とか何なに・・・と、自分の番になって、写真をやってますと答えました。そしたら、凱風社を紹介していただいたのです。
 まあ、それだけの事でして、蔵前さんのハニーGH滞在は一時間くらいじゃなかったでしょうか。
 そのあと、アフリカに向かうと仰っていたのを覚えています。