『ニッポンの海外旅行』

 先日、知り合いの編集者から「新書を読んでいたら、旅行人のことが何ページも書いてあって驚いた」というメールが来た。『ニッポンの海外旅行──若者と観光メディアの50年史』(山口誠/ちくま新書)という本らしい。さっそく買い求めて読んでみた。

 この本の主旨を大雑把にいうと、最近の若者は海外旅行に出なくなったのは何故か、どうしたら彼らが旅に出るようになるのかというものだ。若者はケータイやインターネットにうつつを抜かしているからだといわれているが、本当はそれが最大の原因なのではなく、海外旅行そのものが変節し、つまらないものになってしまったからではないかと著者は主張する。

 著者がいう、つまらない海外旅行とは、こういう旅である。
 ────「買い・食い」行動を前に押し出してきた『歩かない』個人旅行が、長い独走の果てにたどりついたのは、旅先の日常生活が伝えてきた歴史や文化から切り離され、お金を介した消費行動だけで辛うじて接点を持つ、「個人旅行」が「孤人旅行」と化した、脱文脈化する海外旅行の現状である。

 だから、若者よ、もっと「歩く旅」をしろという。いや、「旅先の歴史や文化に触れる新しい「歩く」旅を魅力的に提示することができれば」、若者の旅に新しい道が開けるかもしれないという。

 しかしねえ、「買い・食い」の海外旅行なんてのは、私が海外旅行を始める以前からすでに主流だったわけだし、それはずーっと主流であり続けているんじゃないのか。にもかかわらず、バックパッカーは、安上がりな旅をしに海外へ出かけたのだ。何も、新しい道を業者に提示されたわけじゃない。もちろん『地球の歩き方』の登場はあったが、ビジネスモデルとして業者がバックパッカー的な「歩く旅」を提案するわけがないのだし(儲からないでしょ、それじゃ)。いったい誰に、歴史とふれあいの新しい歩く旅を提示しろといっているのかわからないが、それだったら先生、あなたが自分でまずおやりなさい。それで効果があれば、先生の主張は正しかったことが証明されるだろう。

 だが、今の(あるいは以前も)若者は本当に「旅先の歴史や文化に触れる新しい「歩く」旅」なんてものに魅力を感じるのだろうか。そこのところが深く疑問なのだがなあ。人々とのふれあいだ、歴史だなんて堅いこといってるから、うんざりするんじゃないのか?「歴史や文化に触れる旅」なんてのはタテマエであって、そういったことと関係なく旅はまずおもしろいのではないか。あえていえば、食うことだって「食文化」なんだし。

 今の若者が旅をしなくなった要因を、ただ旅の状況だけで考えても答えは出ないのではないだろうか。若者たちは、本も読まない、テレビも観ない、山にも登らないし、スキーもしないし、車も買わない、といわれている。海外旅行も若者が興味を失ったものの一つなのだから、やはり旅のあり方だけで語ろうというのは無理があると私は思う。「歴史や文化に触れる旅」なんてのは昔からいわれていることで、そんなのを目標に旅をする優等生ってリアルじゃないね。

 さて、私と旅行人について書かれている部分だが、私については「第3世代バックパッカー」と分類されている。1990年代以降の「日本人探しの旅」をしている旅行者なんだそうだ。その詳細については本書を読んでいただきたいが、私の記述については間違いがあるので、著者に代わって私が訂正をしておく(私に電話で聞くとか少しぐらい直接取材をしなさいよ)。それほどたいしたことじゃありませんよ。

──蔵前が初めて海外へ渡ったのは、慶應義塾大学に在学中の79年のアメリカだった
 違います。大学を卒業後でした。
──沢木(耕太郎)のベストセラー(『深夜特急』)とは違い、蔵前の『ゴーゴー・インド』はなかなか売れなかったという。置くべき棚がない、と体よく断られもした
 そりゃ『深夜特急』と較べたら「売れなかった」かもしれないが、小さな出版社から初めて出した割にはよく売れていたんですよ。「置くべき棚がない」というのは、私が情報センター出版局に持ち込んで出版を「体よく断られ」たときの話で、話を混同している。「のちに蔵前は語っている」と書いてあるが、私、どこであなたにそんな話をしました?

 ちくま新書にラインナップされ、海外旅行を語った本で、私と旅行人がこれほどの紙面を割いて紹介されたのだから、実に光栄なことである。子どもがいれば孫子の代まで伝えたかったほどだ。惜しむらくは、私がもう旅行人を出すのをやめますといった直後だったことである。これもある意味でいいタイミングだったってことですか。