朝井まかて『ボタニカ』

 朝井まかてがまた傑作をものにした。植物学者、牧野富太郎の伝記『ボタニカ』だ。僕は牧野富太郎については高名な植物学者であること以外何も知らなかったが、金持ちの家に生まれながら、身代を食いつぶすほど植物にのめりこんだ研究者だったようだ。尋常ではないのめりこみようで、それがこの本の読ませどころの一つだ。

 牧野は受け継いだ膨大な資産を食いつぶしだけではまだ足りず、借金に借金を重ねていくが、おかげで家賃も払えず、家族総出で何度も夜逃げを繰り返す。あまりにも夜逃げが多くて、だんだんそれにも慣れていくというくだりに大笑いした。

 

 家賃や節季払いに難渋するのは日常のことで、暮れに夜逃げ同然に家移りすることになっても富太郎は旅の空、採集道具を手に山中を歩いていたりする。(妻の)壽衛も慣れたもので、新しい住所を旅宿に電報で知らせてくるのだ。うっかり元の家に帰ってしまい、もぬけの殻に驚いて「空き巣にやられた」と派出所に駆け込んだこともあった。

 

 牧野富太郎に本当にこんなことがあったのか? と疑いたくなるような話だ。

 妻からすれば、これほどどうしようもない夫はいないと思うのだが、朝井まかての筆致は、このだらしなく甲斐性のない男に限りなく優しい。作家としての朝井は、牧野のどうしようもない業の理解者であるのかもしれない。

 牧野夫妻は晩年、大泉学園に終の住み処を構える。そこが現在の牧野記念庭園になっている。近所なので僕も何度か訪れたことがあるが、これからはこの話を思い浮かべながら訪れるのが楽しみだ。

 

 

竹宮惠子のバックパッカー旅行。その2

 のっけから訂正です。

 前回書いた竹宮と増山の会話で、増山が「知ってるわよ、それくらい! 小澤征爾だってそういうので武者修行に行ったのよ!」といったと竹宮は書いたが、前川さんから指摘があり、小澤征爾シベリア鉄道に乗っていなかった。1959年、神戸から貨客船に乗ってマルセイユに着いたそうだ。そのほうがシベリア経由より安かったらしい。
 それから、竹宮たちはJTBの「NISSOヨーロッパセット」で行ったのだろうと私は書いたが、前川さんによれば、このようなパックは他社でも販売していたので、必ずしもJTBのものだとはいえないようだ。訂正します。

 さて、萩尾望都『一度きりの大泉の話』では、44日間で予算は30万円しかなく、それですべてをまかなうことができたと書かれていたが、竹宮の計画では45日間、食事は1日1人1000円、全体で70万円ほどと見積もっている。

 前にも書いたが、ソ連経由でシベリア鉄道と飛行機でヨーロッパへ行くにはおおよそ10万円が必要で、往復だと20万円かかる。残りの旅費は50万円ということになるが、21日間有効のユーレイルパス(4万円)をもし買っていたのなら残りは約46万円になる。当時は外貨持ち出しが2000ドルまでと制限されていた。

 もし持ち出し制限をオーバーした場合、竹宮らは違法に国外に持ち出せたのかというと、前川健一さんによれば、ドルの両替には制限があるが、日本円の持ち出しは出国時に検査しないので、好きなだけ持ち出せた。持ち出した日本円は、ヨーロッパで現地通貨に両替できただろうとのことである。

 1972年当時の大卒初任給は5万2700円で、現在の価値にすると15万7000円ほどだというから、70万円は現在の210万円もの価値があった。ネットでひろったこの換算価値はちょっと安すぎる気がするが、仮に現在の価値を20万円とすると、70万円は280万円もの価値があることになる。いずれにせよ、若者向けの安い旅行といっても、まったく安くはなかったのだ。今だったら往復航空券は15万円ぐらい。残り190万円で45日間旅行したら豪勢な旅行ができる。

 萩尾は、現地の食事について、いつも食べきれないほどの量があって胃拡張になったとしか書いていないが、竹宮は、パリの露店で買ったトマトが美味しかったこと、朝食でフランスパンの付くプチ・デジュネがうれしかったこと、昼はサンドイッチやオムレツをあきれるほど食べたなどと書いている。このへんの描写は几帳面な竹宮の性格がよく出ている。竹宮は道路工事の現場にも注目し、石畳の敷石がどのように敷設されているのかも細かく観察している。何もかもが作品の資料になると必死だったのだろう。このような描写がある。

 あるホテルでは建物内部の部屋のドアなのに、内扉と外扉の間に人が入って隠れられるぐらい、壁に厚みがあった。窓は外とつながるためにあるのだが、寒暖の差が激しいので、ガラス窓が二重になっている。マンガを描いていると、人が窓から外を眺めているシーンなどは、頻繁に出てくる。それらしく描くには、壁の厚さがどのくらいかを表現する必要がある。
「そうか、建物の構造がわからないと本物らしさが出ないのか」と現地で初めて気が付いた。
 仮に知っていることでも、聞くと見るとでは大違いということを文字通り体感した。これを写真の収めたり、スケッチしたりと私は大忙しだった。

 似たようなことは萩尾も書いている。若き漫画家たちにとって、作品の舞台となったヨーロッパを実際に目で見、手で触り、食べてみて、感じることはとてつもなく大きかったことだろう。45日間の旅から日本に帰ったとき、財布には500円しか残っていなかったそうだ。

 萩尾望都竹宮惠子山岸凉子は、こうやってヨーロッパをバックパッカーとして旅し、多くのものを吸収し、旅行後、少女漫画界に一時代を築き上げた。ヨーロッパに行かなくてもマンガは描けたかもしれないが、作品には旅が大きな影響を与えたことだろう。竹宮は最後に次のように書いている。

 本当に来て良かったと思った。いまだに良かったと思っている。40年前のヨーロッパ。まだ古さと新しさが混在した、秋から冬にかかるパリ。私たちは石畳の上を歩く。冷たい空気を肌に感じながら、オニオンスープの匂いをかぎ、朝のクロワッサンのおいしさを知る。全部、覚えている。

 この旅がいかに貴重な体験だったかをかみしめるような文章だ。

竹宮惠子のバックパッカー旅行。その1

 ブログの「萩尾望都バックパッカーだった」を読んだ人から、Twitter竹宮惠子『少年の名はジルベール小学館)にも、彼女たちのヨーロッパ旅行について書かれていますよと教えていただいた。さっそく図書館でその本を借りてきた。

 萩尾望都『一度きりの大泉の話』には、旅行についてはわずか6ページしか書かれていなかったが、全体で237ページの『少年の名はジルベール』には旅行の話に21ページもの紙幅がさかれている。それほど竹宮惠子にとってこのヨーロッパ旅行は強く心に残るものだったのだろう。竹宮はヨーロッパに行った動機を次のように書いている。

 何としてもヨーロッパ行きを実現させようとしたのは、私がこんなふうに行き詰まってしまい、どこかに突破口を探していたからだろう。当時、冷やかし気味のおフランス帰りという言葉があったように、まだヨーロッパ旅行は珍しいものだった。格安航空券もない時代にアテンドなしの旅を決行したのは、この旅行が私にとって、何かこの手につかみとってくる冒険でなければならなかったからだ。

 この当時、竹宮は失敗作や不満に残る作品が多く、精神的に追い詰められていたようだ。そういったとき、古本屋で『ヨーロッパ鉄道の旅』という本を買って読み、ヨーロッパをアテンドなしで安く旅ができることを知る。

 この『ヨーロッパ鉄道の旅』について、前川健一さんならきっと知っているに違いないとメールしてみたら、10分で返事が来た。『ヨーロッパ鉄道の旅』(山本克彦、白陵社、1969)だろうとのこと。著者の山本克彦は、おそらく29〜30歳頃にヨーロッパを旅してこの本を出したものと思われる。

 それで竹宮は増山にヨーロッパ旅行に出ようとけしかける。

 お金なんてぜいたく言わなきゃ1日千円で十分でしょう? あとは往復の旅費とお土産代だけよ? ほら、ここに書いてあるの。バックパッカーソ連(ロシア)経由で……」というと、「知ってるわよ、それくらい! 小澤征爾だってそういうので武者修行に行ったのよ!

 竹宮はここで「バックパッカー」といったことになっているが、当時の日本ではまだバックパッカーという言葉はなかったので、今の読者にわかりやすいように書いたのだろう。あまり乗り気でない増山をくどくために、パリの地図を買い、増山の行きたい場所に印を付けて参加を迫る。やがて具体的な日程ができはじめ、同行者として萩尾望都を誘ったところ、萩尾は即座に賛成したと書いてある。

 萩尾の本では、たまたま30万円が手に入ったので、旅行に使おうと思い立って、竹宮に相談したことになっている。多少ニュアンスは異なるが、執筆時から40年も前のことなので、どちらかの記憶が変わってしまったのだろう。この程度のことはよくあることだ。

 もう1人の同行者、山岸凉子は、すでに相当な人気作家で、仕事量もかなりなものだったらしいが、「本物のヨーロッパ」を見るためならと、仕事を調整して参加することになった。竹宮も『風と木の詩』を描くために資料を集めていたが、やはり本物のヨーロッパを見て何かをつかみたいと強く思っていたようだ。

 竹宮がパック旅行を選択しなかったのは、資金の問題もあっただろうが、それよりもマンガを描き続けるためにに何かをつかみ取ることが重要だったからだ。こう書いている。

 パックツアーは自由にならないので、ソ連を通過する部分だけパックにした若者向けのルートを選んだ。あとは自分たち一人一人のテーマに合った都市を思いのままに順番に回ろうと計画した。
 私はこれまでマンガで貯めたものは、最後の一円まで使い切ってしまおうと決めていた。現地のことは、この身体に全部吸収する。稼いだお金は、未来への私の投資だ。

 そして、竹宮は『トーマスクック鉄道時刻表』を丸善から取り寄せて、各人の希望を取り入れた計画をじっくりと練っていくが、もともとこういう計画を練るのが好きな人だったようだ。思った通り、ヨーロッパ中の国際列車の一等車に乗れるユーレイルパスを購入している。

 前川さんが1975年に集めた資料によれば、「ソ連を通過する部分だけパック」というのは、JTBの「NISSOヨーロッパセット」(NISSOは日ソのこと)だろうとのことだ。横浜からナホトカを船、ナホトカ〜ハバロフスクが鉄道、ハバロフスクから飛行機でモスクワ、鉄道でモスクワからヘルシンキへの片道ツアーが存在した。竹宮も実際このように旅したと書いているので、このパック旅行に参加したのだろう。

 長くなったので、もう1回続く。

宮田珠己さんの新境地『アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険』

 

 14世紀、ジョン・マンデヴィルというイングランド人の旅行家がいた。中東、インド、中国、ジャワ島、スマトラ島を旅して『東方旅行記(マンデヴィル旅行記)』を発表し、ヨーロッパで多くの言葉に翻訳されて大ベストセラーになった。コロンブスはこの本を読んで新大陸発見の旅へ出たというほど絶大な影響力を持った本だったが、のちにこれは他の本からいろいろパクって一冊にまとめたことが判明し、あわれジョン・マンデヴィルは稀代の詐欺師呼ばわれされることになる。

 宮田珠己さんの『アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険』の主人公、アーサー・マンデヴィルは、このジョン・マンデヴィルの息子という設定だ。アーサーは『東方旅行記』を読んで感化された教皇からの命を受け、仲間とともに、伝説のキリスト教国プレスター・ジョンの王国を探しにはるかなる冒険の旅へ出る。その道中、さまざまな苦難や、珍奇な植物や生き物と遭遇する。いわばファンタジー小説だ。

 宮田さんのツイートを見ていると、宮田さんはかねてから中世ヨーロッパの旅行家・冒険家がもたらしたさまざまな報告記や見聞録を読むのが好きなようだ。この本は、そういった長年の読書から生み出された小説ではないかと思う。だからファンタジーといっても、宮田さんが勝手に夢想したものではなく、かつてインドやオリエント世界を見ることのなかったヨーロッパの人々に、旅行家や冒険家が示した奇想や想像の産物が物語に登場する。『東方旅行記』が発表された時代は、異国に住む奇怪な動物や植物は「ファンタジー」ではなく、実存すると信じられていた生き物だ。だからここでいうファンタジー小説とは、現代から見れば「ファンタジー」になるということだ。

 もちろん物語は宮田さんの世界だ。宮田さんはもともと迷路や迷宮といった不思議な世界が好きな人だ。旅に出ても迷子になると楽しいといい、旅先での異界感覚を愛する人で、この作品は彼の異界・異次元感覚が存分に発揮されている。なにしろ主人公のアーサー・マンデヴィルが宮田さんそのものだ。アーサーは3人の仲間とともに旅をするが、他の3人は舞台となっている中世の世界に生きた「人間」だ。その時代の常識で考え行動する。だが、アーサー・マンデヴィルは彼らと距離があり、現代的な思考で批判し、出来事を判断する。

 というか、要するにアーサー・マンデヴィルこと宮田珠己が物語のなかに入り込んで、中世の連中と珍奇な旅をするとどうなるかという話なのだ。だから、これまで宮田さんが実際の旅で遭遇した人々に対して「それでいいのか」「それはちょっとちがうのではないか」などといった突っ込みをここでも連発しながら旅が進んでいく。だから、これは紛れもなく宮田さんの旅行記だともいえる。

 これまで宮田さんの旅行記を愛読してきたファンは、ファンタジー小説でもほとんど違和感なく読めることはまちがいなく、これは現実には見ることができない異世界へ新境地を切り開いた宮田さんの、小説デビュー作にして傑作である。読み始めたら止まらない。ついに宮田さんが新しい世界を切り開いた。ファンは絶対に読み逃してはなりません! 今後も宮田さんは小説を書き続けたいということなので、小説家宮田珠己を心から応援したい。

萩尾望都はバックパッカーだった。その3

 『一度きりの大泉の話』の最終回です。
 1972年、彼女たちは無事に44日間のヨーロッパ旅行を完遂した。萩尾望都はこう書いている。


「名所旧跡などへはあまり行かず、(私は名所旧跡の知識もなかったので)日本と違う風景や異国の街や異国の乗り物や人々を見て、帰ってきました。バス、列車、駅の構内。ホテルの内装。特に窓ガラスやドア。ドアの柱。その一つ一つが日本では見かけない細やかなものです。以後、旅行に行くとドアや窓ばかり写真に撮ってしまいました」

 ヨーロッパを舞台にした作品が多い萩尾には、こういったものは貴重な資料になったのだろう。彼女たちはヨーロッパを旅行しながら、昼は街を歩き、夜は作品を描いていたという。日本から墨汁やペンなど作画道具一式を持っていったのだ。名所旧跡には興味がなく、ドアや窓ばかり写真に撮るあたりは、前川健一さんと通じるものがある(この人も窓のサッシだけ見て時代背景などを語れる)。

 30万円の予算のうち日本とヨーロッパの往復だけで最低でも20万円はかかったはずだ。残りの10万円で44日間ということは1日2270円ということになる。71年に円の持ち出しが10万円までに緩和されたと前掲の『異国憧憬』にあるのだが、萩尾の持ち出した金額は限度ギリギリか、少しそれを超えていたかもしれない。

 このころの円は1ドル314円だから、1日約7ドルで旅をしたことになる。1963年にバックパッカー向けに『ヨーロッパ1日5ドルの旅』(アーサー・フロンマー)というガイドブックが出版されているが、彼女たちの予算もほとんどこれと変わらないレベルだろう。それでもこの本には、サンドイッチですませたとかいうような貧乏くさい話は登場せず、レストランの料理が食べきれないほど多くて胃拡張になりそうだったと書いてあるのが不思議だ。

 私は350ページに及ぶこの本のわずか6ページに書かれた旅行記に本当に感動した。あの時代の若者たちは、部屋の中で一日中漫画ばっかり描いているような少女たちでさえ海外に憧れて、なんとか少ない予算で旅立っていったのだ。一般の日本人にとって海外はまだ本当に遠かった時代、20代前半の女の子たちが自らの力で異国を旅するのは大冒険だったに違いない。しかしこの本にはそれが「冒険だった」とか、「勇気をふりしぼって」とかいった表現はいっさいない。たまたま30万円というまとまったお金が入ったので、「若いのに分不相応の大金を持ってちゃあいけない」から、旅行に使っちゃえ! と、本で憧れていたヨーロッパへ旅立ったのだ。

 まあ、この本の中のヨーロッパ旅行は、ついでのエピソードとして軽く書き足したような感じなので、本当はどういう気分だったのかは詳しくわからない。萩尾からヨーロッパへ行きたいと相談を持ちかけられた増山はこの話に乗り気になって、「みんなで行きましょう」と言い出す。それで竹宮も山岸も行くことになったという。竹宮と山岸がヨーロッパ行きにどう反応したかも触れられていないが、どう考えても、それは一世一代の大冒険であったはずだ。だからこそ竹宮と増山は入念に準備を整えたのだろう。

 萩尾望都竹宮惠子山岸凉子という日本少女漫画界を代表するそうそうたるメンバーがバックパッカーの先輩だったとは夢にも思わなかった。この本が竹宮惠子との関係についてではなく、4人のヨーロッパ旅行記だったら、私にとってどんなにおもしろかったことか。つくづくそれが残念だ。萩尾望都さん、竹宮惠子さん、山岸凉子さん、それについてもっと詳しく書く気はないですかねえ。うちで出しますけど。でも、ないでしょうねえ。ああ、残念。
(一部敬称略)

萩尾望都はバックパッカーだった。その2

 1972年、萩尾望都(当時23歳)、竹宮惠子(同22歳)、山岸凉子(同25歳)がシベリア鉄道に乗ってヨーロッパへ旅した時代は、まさに海外旅行など高嶺の花。このあたりの事情は前川健一さんの専門分野なので、氏の『異国憧憬ー戦後海外旅行外史』(JTB)から引用させていただくと、


「ヨーロッパを目指した若者は、船かシベリア鉄道経由のルートを選んだ。飛行機はあまりにも高かったのである。東京からヨーロッパまでの航空運賃は、68年では片道25万円くらいだが、シベリア経由ならその半額でヨーロッパにたどりつけた」

 当時はもちろん『地球の歩き方』などなく、旅行プランを立案した増山氏はどこでこういう情報を仕入れたのかが気になるところだが、計画は増山に丸投げだったらしく、まったく書かれていない。1967年に五木寛之が『青年は荒野をめざす』を発表して大ヒットしていたから、当時の若者には、ヨーロッパを目指すにはシベリア経由というのが一種の常識だったのかもしれない。『異国憧憬』に、「1967年、JTBソ連船の横浜・ナホトカ航路とシベリア鉄道を利用した『ソ連セット』を発売。10万円前後でヨーロッパへ行けるようになった」と書いてあるので、これを利用した可能性もある。
 彼女たちが旅立った1972年の1年前に日本円が変動相場制に変わったばかりで(それまでは1ドル=360円の固定相場だった)、外貨の持ち出し制限さえあったのだ。この年の日本人の海外渡航者数は139万2000人。前年も71年より43万人も増加して、初めて100万人の大台にのった年だった(コロナ前の2019年は2008万669人)。
 彼女たちの旅行計画は、日本とヨーロッパの往復の便だけを確保し、あとは行く先々でホテルを探すというもので、まさにバックパッカースタイル。旅行中のホテルの予約や列車の手配は竹宮惠子がやったそうだ。当時はもちろんネットなどないので、いったいホテルの予約をどうやってやったのだろう。電話をかけるしかない気がするが、彼女は電話で通じるほどの英語やフランスが話せたのだろうか。あるいは現地の旅行代理店に行ったのか。
「竹宮先生はいつの間にかヨーロッパの分厚い列車時刻表を片手に、列車の駅や路線や時間を全部調べて下さっていて、私たちはついて行くだけでなんの心配もありませんでした」と書かれているが、この分厚い列車時刻表はトーマスクックの「ヨーロッパ鉄道時刻表」だろう。

 私の記憶では80年代でもヨーロッパ旅行はトーマスクックの時刻表が必需品だった。竹宮はこれを出発前に入手してチェックしていたようだ。増山とともに、竹宮も時刻表を見ながら計画を立てていたのだろう。トーマスクックをじっくり見るような人だったら、当然ユーレイスパスのことも知っていただろうから使用していたかもしれない(もしかしたら萩尾望都はそれに気がついてなかったかも)。こうやって見ると竹宮惠子はかなり有能だったことがわかる。萩尾望都もそのことを絶賛している。
 また長くなったので、続きは次回へ。

 

萩尾望都はバックパッカーだった。その1

 長文になりそうなので、ひさしぶりにブログで書くことにした。
 少し前に話題になった萩尾望都『一度きりの大泉の話』を読んだ。これを読むまで、萩尾望都竹宮惠子が不仲だということをぜんぜん知らなかった。そもそも萩尾望都竹宮惠子が不仲だろうが仲がよかろうが私にはまったく興味がない。

 じゃあなぜこの本を読んだのかというと、タイトルに「大泉の話」とあるように、私の住む練馬区大泉学園界隈の話だったからだ。豊島区に手塚治虫を中心としたトキワ荘があって、少年漫画家たちがここらへんの豊島区や練馬区に住んでいることは知っていたが、少女漫画家もやっぱりこのへんに住んでいたことは知らなかった。
 しかし、彼女たちが大泉に住んでいたことはわかったが、大泉の場所についての話はぜんぜん出てこない。当たり前ですね。本の主題は、萩尾望都竹宮惠子といかにして不仲になったかなんだから。この本のレビューを読んでも、萩尾望都がかわいそうだ、竹宮惠子があわれだというような話ばかりで(これもまあ当たり前)、竹宮恵子の言い分を書いた本を読んでいない私には判定を下しようがないし、そもそも興味がない。
 個人的には、萩尾望都の作品は1980年以前のものはほとんど読んでいる。その後は仕事が忙しくなったり、海外旅行に出たので、マンガそのものをまったく読まなくなった。竹宮惠子は『地球へ…』以外はほとんど読んでいない。美少年のベッドシーンが登場するような作品は苦手だったし、絵柄もあまり好きではなかった。
 それではなぜわざわざこの本のことを書こうという気になったかというと、レビューでは誰も話題にしていないので、多くの方々はほとんどパスした話題に驚いたからだ。
 なんと、萩尾望都は1972年、横浜から船でナホトカへ行き、それからシベリア鉄道に乗って(たぶんハバロフスクあたりで)飛行機に乗り換えてモスクワへ飛び、ストックホルムへと向かっていたのだった。この時のメンバーは竹宮惠子、その友人の増山法恵(計画はこの人が立案した)、山岸凉子の4人。いやはや、萩尾望都竹宮惠子山岸凉子シベリア鉄道に乗ってヨーロッパへ旅していたとは! 30万円しかお金がないから、それでヨーロッパを旅するにはそれしか方法がなかったというから、今でいえばバックパッカーみたいなものだ。私はこのことにいたく感激したのだった。
 長くなるので、続きは次回。なるべく早く書きます。