前原利行さんのこと

 突然、前原さんは私たちの前からいなくなった。あまりにも突然で、それが本当のことなのか実感することは今でもむずかしい。だが、人の死とは往々にしてそのように訪れる。その人がいくら親しかろうと、無縁であろうと関係なく。

 前原さんと知り合ったのは『海洋アジア』というガイドブックにたまたま協力してもらったのが最初だったと記憶している。1997年だから26年前のことだ。それ以来、旅行人のガイドブックの多くに彼は携わってくれた。前原さんが妻である愛美さんと知り合ったのも、二人が旅行人ノートの制作スタッフとして参加したのが縁だった。そういった旅行人ノートの制作で最も思い出深いのは『アジア横断』、『シルクロード』だ。

 『アジア横断』を制作したとき、編集の中心で仕切っていたのは前原さんだった。締め切りを前にして連日事務所で長い時間を共に仕事した。その話を僕は『あの日、僕は旅に出た』(幻冬舎)に次のように書いた。

 

「前原さん、『アジア横断』をつくったとき、富永さんが取材から帰ってこなくて、困ったことがあったよね。あのとき、このままだとどうしようもない、全部売れたって最初から赤字だってことで、なんとかしなきゃって話をしたよね」

「そうです。あのときの取材を、全部を一冊に詰め込むと大変なページ数になるから、コストもかかるし、一冊じゃ無理だから二冊に分けようということになったんです」

 そうそう、それで『アジア横断』を「北ルートと南ルートで別の本にしましょうか」と僕がいい、前原さんがそれに賛成した。

「南ルートは一般的なので『アジア横断』として出せますね。北ルートは、おもに中央アジアが中心ですから、中央アジアのガイドブックにしましょう」と前原さんがいったのだ。

 もともと中央アジアのガイドブックは前原さんが提案していたものだった。こういう形で実現するとは思わなかったが。

 

 「旅行人ノート」はいつも前原さんに相談しながら制作していくことが多かった。これも前原さんとの会話。

 

「『旅行人ノート』シリーズは大変だったなあ。原稿を削ろうとすると怒るし、全体のページが何ページになるのかわからないんだもん」

 僕がそういうと、前原さんはいった。

「そりゃ、せっかく取材してきたことを削られるのはいやですよ。でも、蔵前さんも台割をちゃんとつくらないから、あんなことになるんですよ。この場所は何ページ、何行で書くという指示がぜんぜんないんだもん。だからみんなたくさん書いちゃうんですよ」

 

 こうやって前原さんからよく怒られた。

 2005年の「旅行人」149号で、旧市街を特集したとき、僕はバルセロナとモロッコを取材し、前原さんはイスタンブールを取材した。帰路イスタンブールで合流し、日本への帰国便が出るまでの2日ほど、前原さんの案内でイスタンブールを見物したことがあった。

 僕はイスタンブールは初めてではなかったが、前原さんに案内してもらって、ぶらぶらと気楽にイスタンブールを観光した。彼は『子どもに教える世界史』という本を書いたほど歴史が好きで、イスタンブールの裏道を歩きながら、トルコの歴史を説明してくれた。それは実におもしろかった。彼にいわせれば、「歴史好きな僕の中ではイスタンブールはピカ一の存在だ。ローマ~ビザンチン、そしてオスマン帝国と、長い歴史が積み重なり、見どころはつきない」そうで、歴史の話をあれこれ聞きながら街を歩いていたら、それに夢中になってバッグからカメラを盗まれてしまった。

 前原さんは私より6歳年下だったが、気易い先生のような存在だった。旅についてはもちろん、映画や音楽についても彼の経験と知識は膨大で、いつも彼には教えてもらうことばかりだった。正直言って映画や音楽は知識に差がありすぎてついていけなかったので、対等に話をした覚えはない。さらに、彼のロック好きは相当なもので、好きなバンドのコンサートを聴きにアメリカやスペインまで行ったのには驚かされた。

 このような彼の知識や経験を頼りにして仕事を頼むことが多かったが、それだけであればこれほど長く一緒に仕事を続けられなかっただろう。一冊の本に何人ものスタッフが制作にかかわると、締め切りが目前に迫って感情的な軋轢が増し、口喧嘩になったりすることもあるものだが、前原さんは感情を荒々しく外に出すことは一切なかった。どんなときでも冷静に対処して仕事を割り振り、難しい仕事を切り抜けていった。内心はバカヤローと思っていたかもしれないが、それを口に出すほど子どもではなく、それに幾度も救われたものだ。だから、前原さんを思い返すと、それはいつも笑顔で淡々と仕事をこなしている姿だ。

 もっと映画を観て、コンサートに行って、ライブをやってみたかったことだろう。もちろん、もっと旅をし、仕事もしたかったはずだ。前原さん、死ぬ間際に何を思った? 僕がそこにいたら、ちょっと待ってよと文句を言っていたところだ。

 前原利行、享年61。早すぎる逝去に納得できないままの日々だ。本当に君はいなくなったのか。

130年後にベストセラーになった『ある奴隷少女に起こった出来事』

 何かに紹介されていたある奴隷少女に起こった出来事という本を読んだ。タイトル通り、アメリカ南部に奴隷として生まれ育った黒人の少女が、その境遇から脱出していく波瀾万丈の物語だ。そのまま映画になりそうなほどドラマチックな話で、この手記が発表された1861年当時は、読んだ人々が誰も実話だとは信じなかったそうだ。そして、無教養なはずの黒人奴隷がこのような文章を書けるはずがないから、白人の誰かが書いたフィクションだと思われ、ほとんど注目を浴びないまま忘れ去られていったという。
 一度は忘れ去られた本が、現代に再発見されたのは偶然による。奴隷解放運動家が残した古い書簡を、ある歴史学者が読んでいたとき、書簡の中に、本の作者である少女の手紙を発見した。この歴史学者は、以前に少女の手記を読んでいて、その手紙が手記の内容とまったく矛盾しておらず、作者不明のフィクションと思われていた手記が、本当のことが描かれたリアルな物語であることがわかったのだ。そうやってこの手記は、発表されてから126年後の1987年に出版され、徐々に注目を集めるようになって、やがてベストセラーになったらしい。
 本書に描かれている奴隷制のあったアメリカ南部諸州は、今見ると残酷極まるものだが、KKKなどという団体があるのは、こういう差別的な精神構造の連中が今でもいるということだろう。本多勝一は、1960年代に南部アメリカの街を、ユダヤ系の男と黄色人種が連れだって歩くのは危険極まる行為だったというようなことを書いていた。
 死後に注目を浴びることになってしまったのは、少女にとっては残念なことだったが、書かれている内容は、人種差別、ジェンダーといった現代でも通用する問題だ。当時は信じてもらえなかったのもうなずけるほど手に汗握る物語は一気読みするほどおもしろかった。

 

 

軽キャンの元祖を訪ねる

 7月下旬から4週間弱、四国、中国、九州をまわってきた。今回はおもしろいところにいったので、その話をSNSに書こうと思ったんだけど、長くなりそうなのでブログにした。

 

 今、キャンピングカーがブームになっている。道の駅でもキャンピングカーが停まっていないところはないほどだ。そのなかでいかにも日本的なのが軽自動車を改造したキャンピングカー(略して軽キャン)だ。軽自動車のような小さな車がキャンピングカーになるのか? と思うが、立派なキャンピングカーになり、維持費も安いこともあって大人気だ。

 

 僕が知る限り、その軽キャンを最初に作り、世の中に広めたのが「テント虫」だ(まちがっているかもしれません)。軽トラックの荷台部分に居住スペースを積んだテント虫は、軽トラとは思えないほど充実した装備になっている。写真で見る方が早いので、こちらからご覧下さい。

https://www.vs-mikami.com/tentmushi/

 

 このテント虫を製造販売しているのが、バンショップ・ミカミという会社で、鹿児島のすごい田舎にある。鹿児島県曽於郡財部町と聞いて場所がわかることはおろか、読み方さえわかる人は地元民だけだろう。「そおぐん・たからべちょう」と読む。僕が読み方を知っているのは、もちろんこのそばで生まれ育ったからだ。

 

 今回の旅で、この付近を通ることになって、それならちょっとテント虫を見せてもらおうと思って立ち寄ってみた。言っちゃ悪いが、ここらへんはド田舎と呼ぶにふさわしい。周囲はぱらぱらと家があって、その他には田畑しかない。そこに、日本で屈指の軽キャンビルダーがあるのだ。

 

 どういう会社かと思って期待して行ったら、ただの小さな町工場だった(すみません!)。キャンピングカーに興味がある人で、テント虫の名前を知らない人はまずいない。業界でも屈指の有名ビルダーなのに、本社社屋はこれだ。工場は屋根を架けただけのスペース。ここであの憧れのテント虫を製造しているのか!

バンショップミカミの全貌

 テント虫を見せていただけますかとお願いすると、社員の方が快く車を見せて下さった。初めて実車を見たが、想像していた通り中は広く、実によくできている。人気があるはずだ。工場では3、4台のキャンピングカーが製造されている。

工場で製造中のキャンピングカー。右側の銀色の車体は多分Dテント虫で普通車ベース。

「これ、今注文すると、納期はどれぐらいですか?」

 僕がそう聞くと、言いにくそうにこういった。

「そうですねえ、う~ん、2年半から3年というところですかねえ」

「さ、3年? 3年もかかるんですか! それじゃ1か月に何台製造なさっているんですか?」

 これもかなりいいにくそうに、「う~ん、まあ3台ぐらいですかねえ。今はベース車も入荷しづらくなってまして」

 たった3台! まさに今この工場で作っているこれがすべてということか。わかりやすいといえばじつにわかりやすい。3年で作れるのはたった108台。つまり100人あまりのバックオーダーを抱えているというわけだ。

「3年かかるとなると、その間にモデルチェンジしちゃうんじゃないですか?」

「そうなんですよ。それが悩みの種です」

 

 日本で販売されている日本製のキャンピングカーはすべて手造りされている。つまり、内外装する部品で大量生産されているものはネジ釘のようなものだけで、ほとんどすべてのパーツは一個一個手造りしなければならない。だから1台作り上げるのにかなり時間がかかる。他のキャンピングカービルダーでも1〜2年待つのは当たり前という状態だ。新車を注文して2年も3年もかかるのでは待っていられない。だから、キャンピングカーは中古車もかなりの高値で販売されている。

 

 それにしても、一か月でたった3台で商売になるのか? 余計なお世話だが、鹿児島のド田舎なら土地も安いし、屋根を架けるだけの工場ならたいした建設費はかからないから、設備投資して増産したらいいのにと素人は思うが、ジムニーだってあんなに人気があって納期1年以上というのに、今より増産はしないそうだから、これこそが慎重経営、長生きの秘訣なのかもとは思うが、せめて10台ぐらい作ろうよ~。

朝井まかて『ボタニカ』

 朝井まかてがまた傑作をものにした。植物学者、牧野富太郎の伝記『ボタニカ』だ。僕は牧野富太郎については高名な植物学者であること以外何も知らなかったが、金持ちの家に生まれながら、身代を食いつぶすほど植物にのめりこんだ研究者だったようだ。尋常ではないのめりこみようで、それがこの本の読ませどころの一つだ。

 牧野は受け継いだ膨大な資産を食いつぶしだけではまだ足りず、借金に借金を重ねていくが、おかげで家賃も払えず、家族総出で何度も夜逃げを繰り返す。あまりにも夜逃げが多くて、だんだんそれにも慣れていくというくだりに大笑いした。

 

 家賃や節季払いに難渋するのは日常のことで、暮れに夜逃げ同然に家移りすることになっても富太郎は旅の空、採集道具を手に山中を歩いていたりする。(妻の)壽衛も慣れたもので、新しい住所を旅宿に電報で知らせてくるのだ。うっかり元の家に帰ってしまい、もぬけの殻に驚いて「空き巣にやられた」と派出所に駆け込んだこともあった。

 

 牧野富太郎に本当にこんなことがあったのか? と疑いたくなるような話だ。

 妻からすれば、これほどどうしようもない夫はいないと思うのだが、朝井まかての筆致は、このだらしなく甲斐性のない男に限りなく優しい。作家としての朝井は、牧野のどうしようもない業の理解者であるのかもしれない。

 牧野夫妻は晩年、大泉学園に終の住み処を構える。そこが現在の牧野記念庭園になっている。近所なので僕も何度か訪れたことがあるが、これからはこの話を思い浮かべながら訪れるのが楽しみだ。

 

 

竹宮惠子のバックパッカー旅行。その2

 のっけから訂正です。

 前回書いた竹宮と増山の会話で、増山が「知ってるわよ、それくらい! 小澤征爾だってそういうので武者修行に行ったのよ!」といったと竹宮は書いたが、前川さんから指摘があり、小澤征爾シベリア鉄道に乗っていなかった。1959年、神戸から貨客船に乗ってマルセイユに着いたそうだ。そのほうがシベリア経由より安かったらしい。
 それから、竹宮たちはJTBの「NISSOヨーロッパセット」で行ったのだろうと私は書いたが、前川さんによれば、このようなパックは他社でも販売していたので、必ずしもJTBのものだとはいえないようだ。訂正します。

 さて、萩尾望都『一度きりの大泉の話』では、44日間で予算は30万円しかなく、それですべてをまかなうことができたと書かれていたが、竹宮の計画では45日間、食事は1日1人1000円、全体で70万円ほどと見積もっている。

 前にも書いたが、ソ連経由でシベリア鉄道と飛行機でヨーロッパへ行くにはおおよそ10万円が必要で、往復だと20万円かかる。残りの旅費は50万円ということになるが、21日間有効のユーレイルパス(4万円)をもし買っていたのなら残りは約46万円になる。当時は外貨持ち出しが2000ドルまでと制限されていた。

 もし持ち出し制限をオーバーした場合、竹宮らは違法に国外に持ち出せたのかというと、前川健一さんによれば、ドルの両替には制限があるが、日本円の持ち出しは出国時に検査しないので、好きなだけ持ち出せた。持ち出した日本円は、ヨーロッパで現地通貨に両替できただろうとのことである。

 1972年当時の大卒初任給は5万2700円で、現在の価値にすると15万7000円ほどだというから、70万円は現在の210万円もの価値があった。ネットでひろったこの換算価値はちょっと安すぎる気がするが、仮に現在の価値を20万円とすると、70万円は280万円もの価値があることになる。いずれにせよ、若者向けの安い旅行といっても、まったく安くはなかったのだ。今だったら往復航空券は15万円ぐらい。残り190万円で45日間旅行したら豪勢な旅行ができる。

 萩尾は、現地の食事について、いつも食べきれないほどの量があって胃拡張になったとしか書いていないが、竹宮は、パリの露店で買ったトマトが美味しかったこと、朝食でフランスパンの付くプチ・デジュネがうれしかったこと、昼はサンドイッチやオムレツをあきれるほど食べたなどと書いている。このへんの描写は几帳面な竹宮の性格がよく出ている。竹宮は道路工事の現場にも注目し、石畳の敷石がどのように敷設されているのかも細かく観察している。何もかもが作品の資料になると必死だったのだろう。このような描写がある。

 あるホテルでは建物内部の部屋のドアなのに、内扉と外扉の間に人が入って隠れられるぐらい、壁に厚みがあった。窓は外とつながるためにあるのだが、寒暖の差が激しいので、ガラス窓が二重になっている。マンガを描いていると、人が窓から外を眺めているシーンなどは、頻繁に出てくる。それらしく描くには、壁の厚さがどのくらいかを表現する必要がある。
「そうか、建物の構造がわからないと本物らしさが出ないのか」と現地で初めて気が付いた。
 仮に知っていることでも、聞くと見るとでは大違いということを文字通り体感した。これを写真の収めたり、スケッチしたりと私は大忙しだった。

 似たようなことは萩尾も書いている。若き漫画家たちにとって、作品の舞台となったヨーロッパを実際に目で見、手で触り、食べてみて、感じることはとてつもなく大きかったことだろう。45日間の旅から日本に帰ったとき、財布には500円しか残っていなかったそうだ。

 萩尾望都竹宮惠子山岸凉子は、こうやってヨーロッパをバックパッカーとして旅し、多くのものを吸収し、旅行後、少女漫画界に一時代を築き上げた。ヨーロッパに行かなくてもマンガは描けたかもしれないが、作品には旅が大きな影響を与えたことだろう。竹宮は最後に次のように書いている。

 本当に来て良かったと思った。いまだに良かったと思っている。40年前のヨーロッパ。まだ古さと新しさが混在した、秋から冬にかかるパリ。私たちは石畳の上を歩く。冷たい空気を肌に感じながら、オニオンスープの匂いをかぎ、朝のクロワッサンのおいしさを知る。全部、覚えている。

 この旅がいかに貴重な体験だったかをかみしめるような文章だ。

竹宮惠子のバックパッカー旅行。その1

 ブログの「萩尾望都バックパッカーだった」を読んだ人から、Twitter竹宮惠子『少年の名はジルベール小学館)にも、彼女たちのヨーロッパ旅行について書かれていますよと教えていただいた。さっそく図書館でその本を借りてきた。

 萩尾望都『一度きりの大泉の話』には、旅行についてはわずか6ページしか書かれていなかったが、全体で237ページの『少年の名はジルベール』には旅行の話に21ページもの紙幅がさかれている。それほど竹宮惠子にとってこのヨーロッパ旅行は強く心に残るものだったのだろう。竹宮はヨーロッパに行った動機を次のように書いている。

 何としてもヨーロッパ行きを実現させようとしたのは、私がこんなふうに行き詰まってしまい、どこかに突破口を探していたからだろう。当時、冷やかし気味のおフランス帰りという言葉があったように、まだヨーロッパ旅行は珍しいものだった。格安航空券もない時代にアテンドなしの旅を決行したのは、この旅行が私にとって、何かこの手につかみとってくる冒険でなければならなかったからだ。

 この当時、竹宮は失敗作や不満に残る作品が多く、精神的に追い詰められていたようだ。そういったとき、古本屋で『ヨーロッパ鉄道の旅』という本を買って読み、ヨーロッパをアテンドなしで安く旅ができることを知る。

 この『ヨーロッパ鉄道の旅』について、前川健一さんならきっと知っているに違いないとメールしてみたら、10分で返事が来た。『ヨーロッパ鉄道の旅』(山本克彦、白陵社、1969)だろうとのこと。著者の山本克彦は、おそらく29〜30歳頃にヨーロッパを旅してこの本を出したものと思われる。

 それで竹宮は増山にヨーロッパ旅行に出ようとけしかける。

 お金なんてぜいたく言わなきゃ1日千円で十分でしょう? あとは往復の旅費とお土産代だけよ? ほら、ここに書いてあるの。バックパッカーソ連(ロシア)経由で……」というと、「知ってるわよ、それくらい! 小澤征爾だってそういうので武者修行に行ったのよ!

 竹宮はここで「バックパッカー」といったことになっているが、当時の日本ではまだバックパッカーという言葉はなかったので、今の読者にわかりやすいように書いたのだろう。あまり乗り気でない増山をくどくために、パリの地図を買い、増山の行きたい場所に印を付けて参加を迫る。やがて具体的な日程ができはじめ、同行者として萩尾望都を誘ったところ、萩尾は即座に賛成したと書いてある。

 萩尾の本では、たまたま30万円が手に入ったので、旅行に使おうと思い立って、竹宮に相談したことになっている。多少ニュアンスは異なるが、執筆時から40年も前のことなので、どちらかの記憶が変わってしまったのだろう。この程度のことはよくあることだ。

 もう1人の同行者、山岸凉子は、すでに相当な人気作家で、仕事量もかなりなものだったらしいが、「本物のヨーロッパ」を見るためならと、仕事を調整して参加することになった。竹宮も『風と木の詩』を描くために資料を集めていたが、やはり本物のヨーロッパを見て何かをつかみたいと強く思っていたようだ。

 竹宮がパック旅行を選択しなかったのは、資金の問題もあっただろうが、それよりもマンガを描き続けるためにに何かをつかみ取ることが重要だったからだ。こう書いている。

 パックツアーは自由にならないので、ソ連を通過する部分だけパックにした若者向けのルートを選んだ。あとは自分たち一人一人のテーマに合った都市を思いのままに順番に回ろうと計画した。
 私はこれまでマンガで貯めたものは、最後の一円まで使い切ってしまおうと決めていた。現地のことは、この身体に全部吸収する。稼いだお金は、未来への私の投資だ。

 そして、竹宮は『トーマスクック鉄道時刻表』を丸善から取り寄せて、各人の希望を取り入れた計画をじっくりと練っていくが、もともとこういう計画を練るのが好きな人だったようだ。思った通り、ヨーロッパ中の国際列車の一等車に乗れるユーレイルパスを購入している。

 前川さんが1975年に集めた資料によれば、「ソ連を通過する部分だけパック」というのは、JTBの「NISSOヨーロッパセット」(NISSOは日ソのこと)だろうとのことだ。横浜からナホトカを船、ナホトカ〜ハバロフスクが鉄道、ハバロフスクから飛行機でモスクワ、鉄道でモスクワからヘルシンキへの片道ツアーが存在した。竹宮も実際このように旅したと書いているので、このパック旅行に参加したのだろう。

 長くなったので、もう1回続く。

宮田珠己さんの新境地『アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険』

 

 14世紀、ジョン・マンデヴィルというイングランド人の旅行家がいた。中東、インド、中国、ジャワ島、スマトラ島を旅して『東方旅行記(マンデヴィル旅行記)』を発表し、ヨーロッパで多くの言葉に翻訳されて大ベストセラーになった。コロンブスはこの本を読んで新大陸発見の旅へ出たというほど絶大な影響力を持った本だったが、のちにこれは他の本からいろいろパクって一冊にまとめたことが判明し、あわれジョン・マンデヴィルは稀代の詐欺師呼ばわれされることになる。

 宮田珠己さんの『アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険』の主人公、アーサー・マンデヴィルは、このジョン・マンデヴィルの息子という設定だ。アーサーは『東方旅行記』を読んで感化された教皇からの命を受け、仲間とともに、伝説のキリスト教国プレスター・ジョンの王国を探しにはるかなる冒険の旅へ出る。その道中、さまざまな苦難や、珍奇な植物や生き物と遭遇する。いわばファンタジー小説だ。

 宮田さんのツイートを見ていると、宮田さんはかねてから中世ヨーロッパの旅行家・冒険家がもたらしたさまざまな報告記や見聞録を読むのが好きなようだ。この本は、そういった長年の読書から生み出された小説ではないかと思う。だからファンタジーといっても、宮田さんが勝手に夢想したものではなく、かつてインドやオリエント世界を見ることのなかったヨーロッパの人々に、旅行家や冒険家が示した奇想や想像の産物が物語に登場する。『東方旅行記』が発表された時代は、異国に住む奇怪な動物や植物は「ファンタジー」ではなく、実存すると信じられていた生き物だ。だからここでいうファンタジー小説とは、現代から見れば「ファンタジー」になるということだ。

 もちろん物語は宮田さんの世界だ。宮田さんはもともと迷路や迷宮といった不思議な世界が好きな人だ。旅に出ても迷子になると楽しいといい、旅先での異界感覚を愛する人で、この作品は彼の異界・異次元感覚が存分に発揮されている。なにしろ主人公のアーサー・マンデヴィルが宮田さんそのものだ。アーサーは3人の仲間とともに旅をするが、他の3人は舞台となっている中世の世界に生きた「人間」だ。その時代の常識で考え行動する。だが、アーサー・マンデヴィルは彼らと距離があり、現代的な思考で批判し、出来事を判断する。

 というか、要するにアーサー・マンデヴィルこと宮田珠己が物語のなかに入り込んで、中世の連中と珍奇な旅をするとどうなるかという話なのだ。だから、これまで宮田さんが実際の旅で遭遇した人々に対して「それでいいのか」「それはちょっとちがうのではないか」などといった突っ込みをここでも連発しながら旅が進んでいく。だから、これは紛れもなく宮田さんの旅行記だともいえる。

 これまで宮田さんの旅行記を愛読してきたファンは、ファンタジー小説でもほとんど違和感なく読めることはまちがいなく、これは現実には見ることができない異世界へ新境地を切り開いた宮田さんの、小説デビュー作にして傑作である。読み始めたら止まらない。ついに宮田さんが新しい世界を切り開いた。ファンは絶対に読み逃してはなりません! 今後も宮田さんは小説を書き続けたいということなので、小説家宮田珠己を心から応援したい。