『半導体戦争』ーーなぜ中国は最先端半導体を製造できないのか。

 コロナやウクライナ戦争のせいで、世界的に半導体が不足し、新車の納車が遅れているという話をよく聞く。もちろん半導体は車だけでなく、武器にも使用されるから、ウクライナ戦争で経済制裁を受けるロシアでミサイル用の半導体が枯渇し、それは中国も生産できないという。こういう話は誰でも聞き知っていることだろう。

 半導体の生産の遅れが世界経済に多大な影響を及ぼし、戦争の趨勢を左右するものであることは理解できるが、あれほど精密機器を世界に輸出している中国でさえ作れないのは何故なのか不思議に思って『半導体戦争』(クリス・ミラー、ダイヤモンド社)を読んでみた。

 半導体が毎年どしどし性能がアップし、価格が安くなっていったのは誰もが実感していることだが、性能がアップするにはチップにどれだけ多くのトランジスタを載せられるかにかかっている(らしい)。それには微小化した回路を焼き付けなければならないが、波長がものすごく短い(13.5ナノ)極端紫外線(EUV)を発生させる「EUVリソグラフィ」という機械を開発しなければならなかった。

ーー(回路を焼き付けるための)十分な量のEUVを発生させるには、スズの小滴をレーザーで粉砕させる必要がある。(中略)最善の方法とは、真空内を時速320km/h前後で移動する、100万分の30メートルという大きさのスズを射出する、というものだった。次に、そのスズにレーザーを2回照射する。1回目で高温にしたあと、2回目で小滴を破壊して、太陽表面より桁違いに高い50万度という温度のプラズマを発生させるのだ。このスズを破壊するプロセスを1秒間当たり5万回繰り返すことで、やっと半導体の製造に必要な量のEUVが得られるのだ。

 この何を言っているのか簡単には理解できないようなことがEUVを発生させる方法で、これを実現させる機械は世の中には存在しなかった。レーザーの開発から行わなければならず、できるまでに10年かかった。それからレーザーが発する光を集めて目的の方向に向けるミラーも開発しなければならず、これは私でも知っている有名企業カール・ツァイスが担当した。

 などなど、EUVリソグラフィを作るにはすべての部品を1から開発しなければならなかったが、それは「どこかひとつの国がつくったと胸を張って言えるようなものではなく、多くの国々の共同作品」であり、完成までに数十年と数百億ドルを要したそうだ(実際の製造はオランダの企業1社が独占している)。

 これは半導体を製造するための1つの機械に過ぎない。それだけでもこれだけの技術と費用と時間がかかるのだ。1台1億ドルするらしい。それをまったく新しく、特許にも抵触しないで別の装置を作ることは、さすがに中国でも簡単にはできないというわけだ(ま、中国の場合、特許なんか盗んじゃいますけど)。中国はすでに数十億ドルもの投資をして開発を試みたが、それでもことごとく失敗したらしい(しかも2025年には次世代のEUVリソグラフィが登場する。それは1台3億ドルだそうだ)。

 国の命運を握る半導体の製造を中国があきらめるとは思えないが、それでもそれには膨大な予算と時間がかかり、それが実現できる見通しが確実にあるとはいえない。中国が「純国産の最先端のサプライ・チェーンを築くには、10年以上の期間と、合計1兆ドル以上のコストが必要になると考えられる」のだが、10年後にはそれも旧型になっている。だから、中国もそれはわかっているので、そんなものを構築しようとは考えていないと本書は述べている。

 そして米中の間で現在その鍵を握っているのが台湾と韓国だ。台湾と韓国で生産される半導体は世界のメモリチップの44%を生産している。もし台湾が中国によって攻撃を受けて半導体の生産が止まれば、世界は壊滅的な打撃を受けるという。なにしろ車がつくれないだけではなく、スマホなど家電製品のあらゆるものが供給できなくなるのだから、今度のコロナ禍どころではない(スマホ用のプロセッサーの大半は台湾製)。世界はもう半導体によって牛耳られているといっても過言ではないのだ。

 こういう話を読んで驚くのは、上に書いたEUVリソグラフィが半導体工場に設置されたのは2010年代中盤だということだ。ほんの10年前のことで、そこから量子的なサイズの回路が焼き付けられたトランジスタが生産されるようになった。そしてすでに次世代のEUVリソグラフィさえ開発されているというのだから、何も知らずにスマホの性能がよくなっただの、安くなっただの喜んでいたそのときに、世界ではこういうことが起きていたと知って愕然となる。

 まあ、そもそもこういう技術的なことをちゃんと理解できるような知性を持ち合わせていないので、ニュースで流れても理解はできなかっただろう。半導体といってもいろいろ種類があることをこれを読んで初めて知ったレベルじゃ話にならないのだが、本書は実にわかりやすく書かれていて、半導体の技術的なことではなく、世界における重要性を理解するにはいいテキストだと思う。

 

 

「本の雑誌」目黒考二さん追悼号が届く

 目黒考二さんが亡くなって半年が過ぎ、今頃になって近所の本屋から注文していた「本の雑誌」の目黒さんの追悼号(2023年5月号)が届いた。紙不足でこの号は増刷できないと「本の雑誌」の方に聞いていたのですっかりあきらめていたのだが、ずいぶんひさしぶりに「本の雑誌」のページをめくった。
 巻頭のカラーページ(こんなカラーページが「本の雑誌」にあるとは思わなかったが、これはこの号だけなのか)は目黒さんの本棚で埋め尽くされている。本を収納するためにマンションを2部屋も借りて、そこにはおおよそ4万冊の本が並べられていたそうだ。
 僕も昔はこういう本で埋め尽くされた部屋に憧れていたが、歳をとるにつれて、人生に残された時間と、本棚にある本の量を比較するようになり、再び読む可能性のない本を取り除いていった。4万冊もあったら、僕だったらどこに何があるのか絶対にわからない。読書家の目黒さんならわかるのだろうかと思ったが、浜本茂さんの文章に、目黒さんから「見つからないから買っといて」とたびたび電話があったとあるので、やはりわからなくなっていたのだろう。当然だ。
 本文には追悼の書評家座談会が収録されている。その中で池上冬樹さんが次のようにいっている。
北上次郎に褒められたいって、作家もみんな言いますからね。(中略)自分は読んでもらえる作家なんだなって思いたいんですよ。それはもう作家にとっては、北上次郎というのは本当に高いブランドで、みんな注目している。で、いずれは褒められたい、そういう作家になりたいと」
 これは実によくわかる。僕も目黒さんや椎名さんに褒めてもらったおかげで、物書きとしてやっていけるかもしれないと自信がついた。座談会のあとには目黒さんの文庫解説リストが掲載されていて、そこに僕の『あの日、僕は旅に出た』が並んでいた。巻末に掲載されたこの書評を何度読み返したことだろう。もしかしたら自分で書いた本文より多く読み返したかもしれない。それぐらいうれしかったし、励みになった。
 僕はいわゆる賞をとったことは一度もないが、目黒さんと椎名さんに認めてもらえたことが、立派な賞を取ったのと同じような価値があった。実際、書評で褒めてもらったおかげで本の売り上げが伸びたし、物書きの僕としては、そのうえ読者に喜んでもらって、それでこれまでやってこれたようなものだと思っている。どれほど感謝してもしきれない。
 今年は1月に目黒さんが亡くなり、そのすぐあとに友人の前原利行さんが亡くなって、つらい半年だった。あらためてご冥福をお祈りします。ありがとうございました。

前原利行さんのこと

 突然、前原さんは私たちの前からいなくなった。あまりにも突然で、それが本当のことなのか実感することは今でもむずかしい。だが、人の死とは往々にしてそのように訪れる。その人がいくら親しかろうと、無縁であろうと関係なく。

 前原さんと知り合ったのは『海洋アジア』というガイドブックにたまたま協力してもらったのが最初だったと記憶している。1997年だから26年前のことだ。それ以来、旅行人のガイドブックの多くに彼は携わってくれた。前原さんが妻である愛美さんと知り合ったのも、二人が旅行人ノートの制作スタッフとして参加したのが縁だった。そういった旅行人ノートの制作で最も思い出深いのは『アジア横断』、『シルクロード』だ。

 『アジア横断』を制作したとき、編集の中心で仕切っていたのは前原さんだった。締め切りを前にして連日事務所で長い時間を共に仕事した。その話を僕は『あの日、僕は旅に出た』(幻冬舎)に次のように書いた。

 

「前原さん、『アジア横断』をつくったとき、富永さんが取材から帰ってこなくて、困ったことがあったよね。あのとき、このままだとどうしようもない、全部売れたって最初から赤字だってことで、なんとかしなきゃって話をしたよね」

「そうです。あのときの取材を、全部を一冊に詰め込むと大変なページ数になるから、コストもかかるし、一冊じゃ無理だから二冊に分けようということになったんです」

 そうそう、それで『アジア横断』を「北ルートと南ルートで別の本にしましょうか」と僕がいい、前原さんがそれに賛成した。

「南ルートは一般的なので『アジア横断』として出せますね。北ルートは、おもに中央アジアが中心ですから、中央アジアのガイドブックにしましょう」と前原さんがいったのだ。

 もともと中央アジアのガイドブックは前原さんが提案していたものだった。こういう形で実現するとは思わなかったが。

 

 「旅行人ノート」はいつも前原さんに相談しながら制作していくことが多かった。これも前原さんとの会話。

 

「『旅行人ノート』シリーズは大変だったなあ。原稿を削ろうとすると怒るし、全体のページが何ページになるのかわからないんだもん」

 僕がそういうと、前原さんはいった。

「そりゃ、せっかく取材してきたことを削られるのはいやですよ。でも、蔵前さんも台割をちゃんとつくらないから、あんなことになるんですよ。この場所は何ページ、何行で書くという指示がぜんぜんないんだもん。だからみんなたくさん書いちゃうんですよ」

 

 こうやって前原さんからよく怒られた。

 2005年の「旅行人」149号で、旧市街を特集したとき、僕はバルセロナとモロッコを取材し、前原さんはイスタンブールを取材した。帰路イスタンブールで合流し、日本への帰国便が出るまでの2日ほど、前原さんの案内でイスタンブールを見物したことがあった。

 僕はイスタンブールは初めてではなかったが、前原さんに案内してもらって、ぶらぶらと気楽にイスタンブールを観光した。彼は『子どもに教える世界史』という本を書いたほど歴史が好きで、イスタンブールの裏道を歩きながら、トルコの歴史を説明してくれた。それは実におもしろかった。彼にいわせれば、「歴史好きな僕の中ではイスタンブールはピカ一の存在だ。ローマ~ビザンチン、そしてオスマン帝国と、長い歴史が積み重なり、見どころはつきない」そうで、歴史の話をあれこれ聞きながら街を歩いていたら、それに夢中になってバッグからカメラを盗まれてしまった。

 前原さんは私より6歳年下だったが、気易い先生のような存在だった。旅についてはもちろん、映画や音楽についても彼の経験と知識は膨大で、いつも彼には教えてもらうことばかりだった。正直言って映画や音楽は知識に差がありすぎてついていけなかったので、対等に話をした覚えはない。さらに、彼のロック好きは相当なもので、好きなバンドのコンサートを聴きにアメリカやスペインまで行ったのには驚かされた。

 このような彼の知識や経験を頼りにして仕事を頼むことが多かったが、それだけであればこれほど長く一緒に仕事を続けられなかっただろう。一冊の本に何人ものスタッフが制作にかかわると、締め切りが目前に迫って感情的な軋轢が増し、口喧嘩になったりすることもあるものだが、前原さんは感情を荒々しく外に出すことは一切なかった。どんなときでも冷静に対処して仕事を割り振り、難しい仕事を切り抜けていった。内心はバカヤローと思っていたかもしれないが、それを口に出すほど子どもではなく、それに幾度も救われたものだ。だから、前原さんを思い返すと、それはいつも笑顔で淡々と仕事をこなしている姿だ。

 もっと映画を観て、コンサートに行って、ライブをやってみたかったことだろう。もちろん、もっと旅をし、仕事もしたかったはずだ。前原さん、死ぬ間際に何を思った? 僕がそこにいたら、ちょっと待ってよと文句を言っていたところだ。

 前原利行、享年61。早すぎる逝去に納得できないままの日々だ。本当に君はいなくなったのか。

130年後にベストセラーになった『ある奴隷少女に起こった出来事』

 何かに紹介されていたある奴隷少女に起こった出来事という本を読んだ。タイトル通り、アメリカ南部に奴隷として生まれ育った黒人の少女が、その境遇から脱出していく波瀾万丈の物語だ。そのまま映画になりそうなほどドラマチックな話で、この手記が発表された1861年当時は、読んだ人々が誰も実話だとは信じなかったそうだ。そして、無教養なはずの黒人奴隷がこのような文章を書けるはずがないから、白人の誰かが書いたフィクションだと思われ、ほとんど注目を浴びないまま忘れ去られていったという。
 一度は忘れ去られた本が、現代に再発見されたのは偶然による。奴隷解放運動家が残した古い書簡を、ある歴史学者が読んでいたとき、書簡の中に、本の作者である少女の手紙を発見した。この歴史学者は、以前に少女の手記を読んでいて、その手紙が手記の内容とまったく矛盾しておらず、作者不明のフィクションと思われていた手記が、本当のことが描かれたリアルな物語であることがわかったのだ。そうやってこの手記は、発表されてから126年後の1987年に出版され、徐々に注目を集めるようになって、やがてベストセラーになったらしい。
 本書に描かれている奴隷制のあったアメリカ南部諸州は、今見ると残酷極まるものだが、KKKなどという団体があるのは、こういう差別的な精神構造の連中が今でもいるということだろう。本多勝一は、1960年代に南部アメリカの街を、ユダヤ系の男と黄色人種が連れだって歩くのは危険極まる行為だったというようなことを書いていた。
 死後に注目を浴びることになってしまったのは、少女にとっては残念なことだったが、書かれている内容は、人種差別、ジェンダーといった現代でも通用する問題だ。当時は信じてもらえなかったのもうなずけるほど手に汗握る物語は一気読みするほどおもしろかった。

 

 

軽キャンの元祖を訪ねる

 7月下旬から4週間弱、四国、中国、九州をまわってきた。今回はおもしろいところにいったので、その話をSNSに書こうと思ったんだけど、長くなりそうなのでブログにした。

 

 今、キャンピングカーがブームになっている。道の駅でもキャンピングカーが停まっていないところはないほどだ。そのなかでいかにも日本的なのが軽自動車を改造したキャンピングカー(略して軽キャン)だ。軽自動車のような小さな車がキャンピングカーになるのか? と思うが、立派なキャンピングカーになり、維持費も安いこともあって大人気だ。

 

 僕が知る限り、その軽キャンを最初に作り、世の中に広めたのが「テント虫」だ(まちがっているかもしれません)。軽トラックの荷台部分に居住スペースを積んだテント虫は、軽トラとは思えないほど充実した装備になっている。写真で見る方が早いので、こちらからご覧下さい。

https://www.vs-mikami.com/tentmushi/

 

 このテント虫を製造販売しているのが、バンショップ・ミカミという会社で、鹿児島のすごい田舎にある。鹿児島県曽於郡財部町と聞いて場所がわかることはおろか、読み方さえわかる人は地元民だけだろう。「そおぐん・たからべちょう」と読む。僕が読み方を知っているのは、もちろんこのそばで生まれ育ったからだ。

 

 今回の旅で、この付近を通ることになって、それならちょっとテント虫を見せてもらおうと思って立ち寄ってみた。言っちゃ悪いが、ここらへんはド田舎と呼ぶにふさわしい。周囲はぱらぱらと家があって、その他には田畑しかない。そこに、日本で屈指の軽キャンビルダーがあるのだ。

 

 どういう会社かと思って期待して行ったら、ただの小さな町工場だった(すみません!)。キャンピングカーに興味がある人で、テント虫の名前を知らない人はまずいない。業界でも屈指の有名ビルダーなのに、本社社屋はこれだ。工場は屋根を架けただけのスペース。ここであの憧れのテント虫を製造しているのか!

バンショップミカミの全貌

 テント虫を見せていただけますかとお願いすると、社員の方が快く車を見せて下さった。初めて実車を見たが、想像していた通り中は広く、実によくできている。人気があるはずだ。工場では3、4台のキャンピングカーが製造されている。

工場で製造中のキャンピングカー。右側の銀色の車体は多分Dテント虫で普通車ベース。

「これ、今注文すると、納期はどれぐらいですか?」

 僕がそう聞くと、言いにくそうにこういった。

「そうですねえ、う~ん、2年半から3年というところですかねえ」

「さ、3年? 3年もかかるんですか! それじゃ1か月に何台製造なさっているんですか?」

 これもかなりいいにくそうに、「う~ん、まあ3台ぐらいですかねえ。今はベース車も入荷しづらくなってまして」

 たった3台! まさに今この工場で作っているこれがすべてということか。わかりやすいといえばじつにわかりやすい。3年で作れるのはたった108台。つまり100人あまりのバックオーダーを抱えているというわけだ。

「3年かかるとなると、その間にモデルチェンジしちゃうんじゃないですか?」

「そうなんですよ。それが悩みの種です」

 

 日本で販売されている日本製のキャンピングカーはすべて手造りされている。つまり、内外装する部品で大量生産されているものはネジ釘のようなものだけで、ほとんどすべてのパーツは一個一個手造りしなければならない。だから1台作り上げるのにかなり時間がかかる。他のキャンピングカービルダーでも1〜2年待つのは当たり前という状態だ。新車を注文して2年も3年もかかるのでは待っていられない。だから、キャンピングカーは中古車もかなりの高値で販売されている。

 

 それにしても、一か月でたった3台で商売になるのか? 余計なお世話だが、鹿児島のド田舎なら土地も安いし、屋根を架けるだけの工場ならたいした建設費はかからないから、設備投資して増産したらいいのにと素人は思うが、ジムニーだってあんなに人気があって納期1年以上というのに、今より増産はしないそうだから、これこそが慎重経営、長生きの秘訣なのかもとは思うが、せめて10台ぐらい作ろうよ~。

朝井まかて『ボタニカ』

 朝井まかてがまた傑作をものにした。植物学者、牧野富太郎の伝記『ボタニカ』だ。僕は牧野富太郎については高名な植物学者であること以外何も知らなかったが、金持ちの家に生まれながら、身代を食いつぶすほど植物にのめりこんだ研究者だったようだ。尋常ではないのめりこみようで、それがこの本の読ませどころの一つだ。

 牧野は受け継いだ膨大な資産を食いつぶしだけではまだ足りず、借金に借金を重ねていくが、おかげで家賃も払えず、家族総出で何度も夜逃げを繰り返す。あまりにも夜逃げが多くて、だんだんそれにも慣れていくというくだりに大笑いした。

 

 家賃や節季払いに難渋するのは日常のことで、暮れに夜逃げ同然に家移りすることになっても富太郎は旅の空、採集道具を手に山中を歩いていたりする。(妻の)壽衛も慣れたもので、新しい住所を旅宿に電報で知らせてくるのだ。うっかり元の家に帰ってしまい、もぬけの殻に驚いて「空き巣にやられた」と派出所に駆け込んだこともあった。

 

 牧野富太郎に本当にこんなことがあったのか? と疑いたくなるような話だ。

 妻からすれば、これほどどうしようもない夫はいないと思うのだが、朝井まかての筆致は、このだらしなく甲斐性のない男に限りなく優しい。作家としての朝井は、牧野のどうしようもない業の理解者であるのかもしれない。

 牧野夫妻は晩年、大泉学園に終の住み処を構える。そこが現在の牧野記念庭園になっている。近所なので僕も何度か訪れたことがあるが、これからはこの話を思い浮かべながら訪れるのが楽しみだ。

 

 

竹宮惠子のバックパッカー旅行。その2

 のっけから訂正です。

 前回書いた竹宮と増山の会話で、増山が「知ってるわよ、それくらい! 小澤征爾だってそういうので武者修行に行ったのよ!」といったと竹宮は書いたが、前川さんから指摘があり、小澤征爾シベリア鉄道に乗っていなかった。1959年、神戸から貨客船に乗ってマルセイユに着いたそうだ。そのほうがシベリア経由より安かったらしい。
 それから、竹宮たちはJTBの「NISSOヨーロッパセット」で行ったのだろうと私は書いたが、前川さんによれば、このようなパックは他社でも販売していたので、必ずしもJTBのものだとはいえないようだ。訂正します。

 さて、萩尾望都『一度きりの大泉の話』では、44日間で予算は30万円しかなく、それですべてをまかなうことができたと書かれていたが、竹宮の計画では45日間、食事は1日1人1000円、全体で70万円ほどと見積もっている。

 前にも書いたが、ソ連経由でシベリア鉄道と飛行機でヨーロッパへ行くにはおおよそ10万円が必要で、往復だと20万円かかる。残りの旅費は50万円ということになるが、21日間有効のユーレイルパス(4万円)をもし買っていたのなら残りは約46万円になる。当時は外貨持ち出しが2000ドルまでと制限されていた。

 もし持ち出し制限をオーバーした場合、竹宮らは違法に国外に持ち出せたのかというと、前川健一さんによれば、ドルの両替には制限があるが、日本円の持ち出しは出国時に検査しないので、好きなだけ持ち出せた。持ち出した日本円は、ヨーロッパで現地通貨に両替できただろうとのことである。

 1972年当時の大卒初任給は5万2700円で、現在の価値にすると15万7000円ほどだというから、70万円は現在の210万円もの価値があった。ネットでひろったこの換算価値はちょっと安すぎる気がするが、仮に現在の価値を20万円とすると、70万円は280万円もの価値があることになる。いずれにせよ、若者向けの安い旅行といっても、まったく安くはなかったのだ。今だったら往復航空券は15万円ぐらい。残り190万円で45日間旅行したら豪勢な旅行ができる。

 萩尾は、現地の食事について、いつも食べきれないほどの量があって胃拡張になったとしか書いていないが、竹宮は、パリの露店で買ったトマトが美味しかったこと、朝食でフランスパンの付くプチ・デジュネがうれしかったこと、昼はサンドイッチやオムレツをあきれるほど食べたなどと書いている。このへんの描写は几帳面な竹宮の性格がよく出ている。竹宮は道路工事の現場にも注目し、石畳の敷石がどのように敷設されているのかも細かく観察している。何もかもが作品の資料になると必死だったのだろう。このような描写がある。

 あるホテルでは建物内部の部屋のドアなのに、内扉と外扉の間に人が入って隠れられるぐらい、壁に厚みがあった。窓は外とつながるためにあるのだが、寒暖の差が激しいので、ガラス窓が二重になっている。マンガを描いていると、人が窓から外を眺めているシーンなどは、頻繁に出てくる。それらしく描くには、壁の厚さがどのくらいかを表現する必要がある。
「そうか、建物の構造がわからないと本物らしさが出ないのか」と現地で初めて気が付いた。
 仮に知っていることでも、聞くと見るとでは大違いということを文字通り体感した。これを写真の収めたり、スケッチしたりと私は大忙しだった。

 似たようなことは萩尾も書いている。若き漫画家たちにとって、作品の舞台となったヨーロッパを実際に目で見、手で触り、食べてみて、感じることはとてつもなく大きかったことだろう。45日間の旅から日本に帰ったとき、財布には500円しか残っていなかったそうだ。

 萩尾望都竹宮惠子山岸凉子は、こうやってヨーロッパをバックパッカーとして旅し、多くのものを吸収し、旅行後、少女漫画界に一時代を築き上げた。ヨーロッパに行かなくてもマンガは描けたかもしれないが、作品には旅が大きな影響を与えたことだろう。竹宮は最後に次のように書いている。

 本当に来て良かったと思った。いまだに良かったと思っている。40年前のヨーロッパ。まだ古さと新しさが混在した、秋から冬にかかるパリ。私たちは石畳の上を歩く。冷たい空気を肌に感じながら、オニオンスープの匂いをかぎ、朝のクロワッサンのおいしさを知る。全部、覚えている。

 この旅がいかに貴重な体験だったかをかみしめるような文章だ。