竹宮惠子のバックパッカー旅行。その2

 のっけから訂正です。

 前回書いた竹宮と増山の会話で、増山が「知ってるわよ、それくらい! 小澤征爾だってそういうので武者修行に行ったのよ!」といったと竹宮は書いたが、前川さんから指摘があり、小澤征爾シベリア鉄道に乗っていなかった。1959年、神戸から貨客船に乗ってマルセイユに着いたそうだ。そのほうがシベリア経由より安かったらしい。
 それから、竹宮たちはJTBの「NISSOヨーロッパセット」で行ったのだろうと私は書いたが、前川さんによれば、このようなパックは他社でも販売していたので、必ずしもJTBのものだとはいえないようだ。訂正します。

 さて、萩尾望都『一度きりの大泉の話』では、44日間で予算は30万円しかなく、それですべてをまかなうことができたと書かれていたが、竹宮の計画では45日間、食事は1日1人1000円、全体で70万円ほどと見積もっている。

 前にも書いたが、ソ連経由でシベリア鉄道と飛行機でヨーロッパへ行くにはおおよそ10万円が必要で、往復だと20万円かかる。残りの旅費は50万円ということになるが、21日間有効のユーレイルパス(4万円)をもし買っていたのなら残りは約46万円になる。当時は外貨持ち出しが2000ドルまでと制限されていた。

 もし持ち出し制限をオーバーした場合、竹宮らは違法に国外に持ち出せたのかというと、前川健一さんによれば、ドルの両替には制限があるが、日本円の持ち出しは出国時に検査しないので、好きなだけ持ち出せた。持ち出した日本円は、ヨーロッパで現地通貨に両替できただろうとのことである。

 1972年当時の大卒初任給は5万2700円で、現在の価値にすると15万7000円ほどだというから、70万円は現在の210万円もの価値があった。ネットでひろったこの換算価値はちょっと安すぎる気がするが、仮に現在の価値を20万円とすると、70万円は280万円もの価値があることになる。いずれにせよ、若者向けの安い旅行といっても、まったく安くはなかったのだ。今だったら往復航空券は15万円ぐらい。残り190万円で45日間旅行したら豪勢な旅行ができる。

 萩尾は、現地の食事について、いつも食べきれないほどの量があって胃拡張になったとしか書いていないが、竹宮は、パリの露店で買ったトマトが美味しかったこと、朝食でフランスパンの付くプチ・デジュネがうれしかったこと、昼はサンドイッチやオムレツをあきれるほど食べたなどと書いている。このへんの描写は几帳面な竹宮の性格がよく出ている。竹宮は道路工事の現場にも注目し、石畳の敷石がどのように敷設されているのかも細かく観察している。何もかもが作品の資料になると必死だったのだろう。このような描写がある。

 あるホテルでは建物内部の部屋のドアなのに、内扉と外扉の間に人が入って隠れられるぐらい、壁に厚みがあった。窓は外とつながるためにあるのだが、寒暖の差が激しいので、ガラス窓が二重になっている。マンガを描いていると、人が窓から外を眺めているシーンなどは、頻繁に出てくる。それらしく描くには、壁の厚さがどのくらいかを表現する必要がある。
「そうか、建物の構造がわからないと本物らしさが出ないのか」と現地で初めて気が付いた。
 仮に知っていることでも、聞くと見るとでは大違いということを文字通り体感した。これを写真の収めたり、スケッチしたりと私は大忙しだった。

 似たようなことは萩尾も書いている。若き漫画家たちにとって、作品の舞台となったヨーロッパを実際に目で見、手で触り、食べてみて、感じることはとてつもなく大きかったことだろう。45日間の旅から日本に帰ったとき、財布には500円しか残っていなかったそうだ。

 萩尾望都竹宮惠子山岸凉子は、こうやってヨーロッパをバックパッカーとして旅し、多くのものを吸収し、旅行後、少女漫画界に一時代を築き上げた。ヨーロッパに行かなくてもマンガは描けたかもしれないが、作品には旅が大きな影響を与えたことだろう。竹宮は最後に次のように書いている。

 本当に来て良かったと思った。いまだに良かったと思っている。40年前のヨーロッパ。まだ古さと新しさが混在した、秋から冬にかかるパリ。私たちは石畳の上を歩く。冷たい空気を肌に感じながら、オニオンスープの匂いをかぎ、朝のクロワッサンのおいしさを知る。全部、覚えている。

 この旅がいかに貴重な体験だったかをかみしめるような文章だ。