萩尾望都はバックパッカーだった。その3

 『一度きりの大泉の話』の最終回です。
 1972年、彼女たちは無事に44日間のヨーロッパ旅行を完遂した。萩尾望都はこう書いている。


「名所旧跡などへはあまり行かず、(私は名所旧跡の知識もなかったので)日本と違う風景や異国の街や異国の乗り物や人々を見て、帰ってきました。バス、列車、駅の構内。ホテルの内装。特に窓ガラスやドア。ドアの柱。その一つ一つが日本では見かけない細やかなものです。以後、旅行に行くとドアや窓ばかり写真に撮ってしまいました」

 ヨーロッパを舞台にした作品が多い萩尾には、こういったものは貴重な資料になったのだろう。彼女たちはヨーロッパを旅行しながら、昼は街を歩き、夜は作品を描いていたという。日本から墨汁やペンなど作画道具一式を持っていったのだ。名所旧跡には興味がなく、ドアや窓ばかり写真に撮るあたりは、前川健一さんと通じるものがある(この人も窓のサッシだけ見て時代背景などを語れる)。

 30万円の予算のうち日本とヨーロッパの往復だけで最低でも20万円はかかったはずだ。残りの10万円で44日間ということは1日2270円ということになる。71年に円の持ち出しが10万円までに緩和されたと前掲の『異国憧憬』にあるのだが、萩尾の持ち出した金額は限度ギリギリか、少しそれを超えていたかもしれない。

 このころの円は1ドル314円だから、1日約7ドルで旅をしたことになる。1963年にバックパッカー向けに『ヨーロッパ1日5ドルの旅』(アーサー・フロンマー)というガイドブックが出版されているが、彼女たちの予算もほとんどこれと変わらないレベルだろう。それでもこの本には、サンドイッチですませたとかいうような貧乏くさい話は登場せず、レストランの料理が食べきれないほど多くて胃拡張になりそうだったと書いてあるのが不思議だ。

 私は350ページに及ぶこの本のわずか6ページに書かれた旅行記に本当に感動した。あの時代の若者たちは、部屋の中で一日中漫画ばっかり描いているような少女たちでさえ海外に憧れて、なんとか少ない予算で旅立っていったのだ。一般の日本人にとって海外はまだ本当に遠かった時代、20代前半の女の子たちが自らの力で異国を旅するのは大冒険だったに違いない。しかしこの本にはそれが「冒険だった」とか、「勇気をふりしぼって」とかいった表現はいっさいない。たまたま30万円というまとまったお金が入ったので、「若いのに分不相応の大金を持ってちゃあいけない」から、旅行に使っちゃえ! と、本で憧れていたヨーロッパへ旅立ったのだ。

 まあ、この本の中のヨーロッパ旅行は、ついでのエピソードとして軽く書き足したような感じなので、本当はどういう気分だったのかは詳しくわからない。萩尾からヨーロッパへ行きたいと相談を持ちかけられた増山はこの話に乗り気になって、「みんなで行きましょう」と言い出す。それで竹宮も山岸も行くことになったという。竹宮と山岸がヨーロッパ行きにどう反応したかも触れられていないが、どう考えても、それは一世一代の大冒険であったはずだ。だからこそ竹宮と増山は入念に準備を整えたのだろう。

 萩尾望都竹宮惠子山岸凉子という日本少女漫画界を代表するそうそうたるメンバーがバックパッカーの先輩だったとは夢にも思わなかった。この本が竹宮惠子との関係についてではなく、4人のヨーロッパ旅行記だったら、私にとってどんなにおもしろかったことか。つくづくそれが残念だ。萩尾望都さん、竹宮惠子さん、山岸凉子さん、それについてもっと詳しく書く気はないですかねえ。うちで出しますけど。でも、ないでしょうねえ。ああ、残念。
(一部敬称略)