竹宮惠子のバックパッカー旅行。その1

 ブログの「萩尾望都バックパッカーだった」を読んだ人から、Twitter竹宮惠子『少年の名はジルベール小学館)にも、彼女たちのヨーロッパ旅行について書かれていますよと教えていただいた。さっそく図書館でその本を借りてきた。

 萩尾望都『一度きりの大泉の話』には、旅行についてはわずか6ページしか書かれていなかったが、全体で237ページの『少年の名はジルベール』には旅行の話に21ページもの紙幅がさかれている。それほど竹宮惠子にとってこのヨーロッパ旅行は強く心に残るものだったのだろう。竹宮はヨーロッパに行った動機を次のように書いている。

 何としてもヨーロッパ行きを実現させようとしたのは、私がこんなふうに行き詰まってしまい、どこかに突破口を探していたからだろう。当時、冷やかし気味のおフランス帰りという言葉があったように、まだヨーロッパ旅行は珍しいものだった。格安航空券もない時代にアテンドなしの旅を決行したのは、この旅行が私にとって、何かこの手につかみとってくる冒険でなければならなかったからだ。

 この当時、竹宮は失敗作や不満に残る作品が多く、精神的に追い詰められていたようだ。そういったとき、古本屋で『ヨーロッパ鉄道の旅』という本を買って読み、ヨーロッパをアテンドなしで安く旅ができることを知る。

 この『ヨーロッパ鉄道の旅』について、前川健一さんならきっと知っているに違いないとメールしてみたら、10分で返事が来た。『ヨーロッパ鉄道の旅』(山本克彦、白陵社、1969)だろうとのこと。著者の山本克彦は、おそらく29〜30歳頃にヨーロッパを旅してこの本を出したものと思われる。

 それで竹宮は増山にヨーロッパ旅行に出ようとけしかける。

 お金なんてぜいたく言わなきゃ1日千円で十分でしょう? あとは往復の旅費とお土産代だけよ? ほら、ここに書いてあるの。バックパッカーソ連(ロシア)経由で……」というと、「知ってるわよ、それくらい! 小澤征爾だってそういうので武者修行に行ったのよ!

 竹宮はここで「バックパッカー」といったことになっているが、当時の日本ではまだバックパッカーという言葉はなかったので、今の読者にわかりやすいように書いたのだろう。あまり乗り気でない増山をくどくために、パリの地図を買い、増山の行きたい場所に印を付けて参加を迫る。やがて具体的な日程ができはじめ、同行者として萩尾望都を誘ったところ、萩尾は即座に賛成したと書いてある。

 萩尾の本では、たまたま30万円が手に入ったので、旅行に使おうと思い立って、竹宮に相談したことになっている。多少ニュアンスは異なるが、執筆時から40年も前のことなので、どちらかの記憶が変わってしまったのだろう。この程度のことはよくあることだ。

 もう1人の同行者、山岸凉子は、すでに相当な人気作家で、仕事量もかなりなものだったらしいが、「本物のヨーロッパ」を見るためならと、仕事を調整して参加することになった。竹宮も『風と木の詩』を描くために資料を集めていたが、やはり本物のヨーロッパを見て何かをつかみたいと強く思っていたようだ。

 竹宮がパック旅行を選択しなかったのは、資金の問題もあっただろうが、それよりもマンガを描き続けるためにに何かをつかみ取ることが重要だったからだ。こう書いている。

 パックツアーは自由にならないので、ソ連を通過する部分だけパックにした若者向けのルートを選んだ。あとは自分たち一人一人のテーマに合った都市を思いのままに順番に回ろうと計画した。
 私はこれまでマンガで貯めたものは、最後の一円まで使い切ってしまおうと決めていた。現地のことは、この身体に全部吸収する。稼いだお金は、未来への私の投資だ。

 そして、竹宮は『トーマスクック鉄道時刻表』を丸善から取り寄せて、各人の希望を取り入れた計画をじっくりと練っていくが、もともとこういう計画を練るのが好きな人だったようだ。思った通り、ヨーロッパ中の国際列車の一等車に乗れるユーレイルパスを購入している。

 前川さんが1975年に集めた資料によれば、「ソ連を通過する部分だけパック」というのは、JTBの「NISSOヨーロッパセット」(NISSOは日ソのこと)だろうとのことだ。横浜からナホトカを船、ナホトカ〜ハバロフスクが鉄道、ハバロフスクから飛行機でモスクワ、鉄道でモスクワからヘルシンキへの片道ツアーが存在した。竹宮も実際このように旅したと書いているので、このパック旅行に参加したのだろう。

 長くなったので、もう1回続く。