萩尾望都はバックパッカーだった。その1

 長文になりそうなので、ひさしぶりにブログで書くことにした。
 少し前に話題になった萩尾望都『一度きりの大泉の話』を読んだ。これを読むまで、萩尾望都竹宮惠子が不仲だということをぜんぜん知らなかった。そもそも萩尾望都竹宮惠子が不仲だろうが仲がよかろうが私にはまったく興味がない。

 じゃあなぜこの本を読んだのかというと、タイトルに「大泉の話」とあるように、私の住む練馬区大泉学園界隈の話だったからだ。豊島区に手塚治虫を中心としたトキワ荘があって、少年漫画家たちがここらへんの豊島区や練馬区に住んでいることは知っていたが、少女漫画家もやっぱりこのへんに住んでいたことは知らなかった。
 しかし、彼女たちが大泉に住んでいたことはわかったが、大泉の場所についての話はぜんぜん出てこない。当たり前ですね。本の主題は、萩尾望都竹宮惠子といかにして不仲になったかなんだから。この本のレビューを読んでも、萩尾望都がかわいそうだ、竹宮惠子があわれだというような話ばかりで(これもまあ当たり前)、竹宮恵子の言い分を書いた本を読んでいない私には判定を下しようがないし、そもそも興味がない。
 個人的には、萩尾望都の作品は1980年以前のものはほとんど読んでいる。その後は仕事が忙しくなったり、海外旅行に出たので、マンガそのものをまったく読まなくなった。竹宮惠子は『地球へ…』以外はほとんど読んでいない。美少年のベッドシーンが登場するような作品は苦手だったし、絵柄もあまり好きではなかった。
 それではなぜわざわざこの本のことを書こうという気になったかというと、レビューでは誰も話題にしていないので、多くの方々はほとんどパスした話題に驚いたからだ。
 なんと、萩尾望都は1972年、横浜から船でナホトカへ行き、それからシベリア鉄道に乗って(たぶんハバロフスクあたりで)飛行機に乗り換えてモスクワへ飛び、ストックホルムへと向かっていたのだった。この時のメンバーは竹宮惠子、その友人の増山法恵(計画はこの人が立案した)、山岸凉子の4人。いやはや、萩尾望都竹宮惠子山岸凉子シベリア鉄道に乗ってヨーロッパへ旅していたとは! 30万円しかお金がないから、それでヨーロッパを旅するにはそれしか方法がなかったというから、今でいえばバックパッカーみたいなものだ。私はこのことにいたく感激したのだった。
 長くなるので、続きは次回。なるべく早く書きます。