インド人が日本人化している?「クーリエ・ジャポン」の特集を読む

 インドから帰国しました。帰国便の飛行機が成田空港に着陸したのが午後8時20分だったが、パスポート管理を終えて、荷物を拾い上げて外に出ると、ああ、わずか2分前に大泉学園行きの最終バスが出たあとだった。うーん、残念無念。

 インドへ出発した日、成田空港の書店で雑誌を一冊購入した。「クーリエ・ジャポン」(講談社)という雑誌で、海外の新聞や雑誌の記事を翻訳してまとめた記事で構成されている。私が買った号(2月号)は中島岳志責任編集と銘打った現代インドの特集「“日本人化”するインド人の暮らし」だった。インドへ行くからちょうどいいと思ったのだ。

 外国人がインドについて書くと、どうしてもオリエンタリズムが入ってくるが、インド国内の読者向けに書かれた記事を読むことで、日本人の知らないリアルなインドを読んでみるというのが、この特集の趣旨であるようだ。「新たな中流階級が“亡命”するゲーテッド・コミュニティ」とか、「ヘルシーな加工食品ブーム」とか、「都市の若者は“出会い系”で人生のパートナーを探す」とか、「豊かさを享受した10代の若者が自殺する」といった極めて現代的なテーマを取り上げている。

 これらの記事を読むと、今のインドが、日本とほとんど同じ苦悩を抱え込んでいることが理解できる。トップ項目の「ゲーテッド・コミュニティ」とは、金持ちだけが壁の中で安全に暮らすコミュニティのことで、これはすでにネパールにも存在するが、どちらかといえば日本ではなくアメリカの真似だ。そして、この特集の最後に、中島は次のように書く。
「私たちが踏み込まなければならないのは、インドが現代社会で抱えている苦悩が、私たちが経験してきたものと同根であるというところだ。(中略)こういった苦悩を共有することによって、開ける関係性があるはずだ。そしてそのとき、本当の意味でのグローバルなアジアが誕生するのではないだろうか」

 ここまで読むと、ちょっと待てよと思う。確かにこれらの記事が伝えるところは、「私たちが経験してきたものと同根である」かもしれない。インド人だって、ちょっと前までは太っているのが美しいといっていたのに、ダイエットがブームになったし(というのももうだいぶ前のことだが)、それがヘルシーな加工食品ブームになったとしても不思議はない。だが、この特集で取り上げられている一連の記事は、一本をのぞいてインドの大都市の、富裕層限定の話である。これらの人々の生活と現実だけがインドの現実であるわけではない。

 唯一例外の記事は、農村の因習として残る幼児婚の実態をレポートしたものだが、「4歳で結婚し、5歳で未亡人…、幼児婚の悲しき犠牲者たち」という内容に、「私たちが経験してきたものと同根」であると考える日本人はほとんどいないだろう。しかし、インドは、こういった悲劇的な因習が残る(あるいは牧歌的な世界も残る)農村部で、そのほとんどを占められている。今回のインド旅行で、私が目にしたインドの英字新聞の記事には、虎が村人を喰い殺すので、安全な土地を政府に要求しているといったことも掲載されているが、こういうことも日本人は経験できないよな。

 特集で取り上げられた「10代の若者が自殺する」という記事では、豊かな環境で育った若者が、両親のプレッシャーから自殺することが急激に増えていると書いている。これによれば、10代の鬱病患者が1980年には0.4%だったのが、2008年には12.8%に急増しているそうだ。原因は「都会の子供たちはどう見ても、(中略)たくさんの洋服やおもちゃなどを持っている。(中略)こうした環境が多くの問題の一因だと心理学者は指摘する。幼くしてあまりに多くを与えられた子供は、成長して挫折を経験した際にうまく対応できなくなる」ことだという。もちろんこれも都会の裕福な階層の人々の話である。田舎では、夫に死なれた妻が(本人の意志と関わりなく)、夫の火葬の火に身を投げる(身を投げさせられる)サティという因習がいまだに絶えないというのにだ。

 中島は、この特集の記事には、「インド人の本当の悩み」が鮮明に表れていると書いているが、その「インド人の本当の悩み」という書き方は学者の文言としてはかなり曖昧である。旅行記でよくいう「本当のインドがそこにある」という書き方とたいして変わらない(「本当の意味でのグローバルなアジアの誕生」という書き方も同じだ)。「近年はIT産業などのビジネス面が注目され、“新しいインド”が紹介され始めたが、それもまた極めて一面的なインドの姿で、オリエンタリズムの裏返しに過ぎない」というのであれば、中島が責任編集したこれらの特集記事もまた「一面的なインドの姿」であろうし、だとすればオリエンタリズムの裏返しに過ぎないことになってしまうんじゃないのか?