萩尾望都はバックパッカーだった。その2

 1972年、萩尾望都(当時23歳)、竹宮惠子(同22歳)、山岸凉子(同25歳)がシベリア鉄道に乗ってヨーロッパへ旅した時代は、まさに海外旅行など高嶺の花。このあたりの事情は前川健一さんの専門分野なので、氏の『異国憧憬ー戦後海外旅行外史』(JTB)から引用させていただくと、


「ヨーロッパを目指した若者は、船かシベリア鉄道経由のルートを選んだ。飛行機はあまりにも高かったのである。東京からヨーロッパまでの航空運賃は、68年では片道25万円くらいだが、シベリア経由ならその半額でヨーロッパにたどりつけた」

 当時はもちろん『地球の歩き方』などなく、旅行プランを立案した増山氏はどこでこういう情報を仕入れたのかが気になるところだが、計画は増山に丸投げだったらしく、まったく書かれていない。1967年に五木寛之が『青年は荒野をめざす』を発表して大ヒットしていたから、当時の若者には、ヨーロッパを目指すにはシベリア経由というのが一種の常識だったのかもしれない。『異国憧憬』に、「1967年、JTBソ連船の横浜・ナホトカ航路とシベリア鉄道を利用した『ソ連セット』を発売。10万円前後でヨーロッパへ行けるようになった」と書いてあるので、これを利用した可能性もある。
 彼女たちが旅立った1972年の1年前に日本円が変動相場制に変わったばかりで(それまでは1ドル=360円の固定相場だった)、外貨の持ち出し制限さえあったのだ。この年の日本人の海外渡航者数は139万2000人。前年も71年より43万人も増加して、初めて100万人の大台にのった年だった(コロナ前の2019年は2008万669人)。
 彼女たちの旅行計画は、日本とヨーロッパの往復の便だけを確保し、あとは行く先々でホテルを探すというもので、まさにバックパッカースタイル。旅行中のホテルの予約や列車の手配は竹宮惠子がやったそうだ。当時はもちろんネットなどないので、いったいホテルの予約をどうやってやったのだろう。電話をかけるしかない気がするが、彼女は電話で通じるほどの英語やフランスが話せたのだろうか。あるいは現地の旅行代理店に行ったのか。
「竹宮先生はいつの間にかヨーロッパの分厚い列車時刻表を片手に、列車の駅や路線や時間を全部調べて下さっていて、私たちはついて行くだけでなんの心配もありませんでした」と書かれているが、この分厚い列車時刻表はトーマスクックの「ヨーロッパ鉄道時刻表」だろう。

 私の記憶では80年代でもヨーロッパ旅行はトーマスクックの時刻表が必需品だった。竹宮はこれを出発前に入手してチェックしていたようだ。増山とともに、竹宮も時刻表を見ながら計画を立てていたのだろう。トーマスクックをじっくり見るような人だったら、当然ユーレイスパスのことも知っていただろうから使用していたかもしれない(もしかしたら萩尾望都はそれに気がついてなかったかも)。こうやって見ると竹宮惠子はかなり有能だったことがわかる。萩尾望都もそのことを絶賛している。
 また長くなったので、続きは次回へ。