校閲という見えない仕事

 以前、当欄で校閲の話を書いたことがある。ふだん他の人が書いた原稿をチェックすることはあっても、他社の校閲に、自分の文章を校閲してもらうことはあまりない。他社から出す本や雑誌に原稿を書くことはあるのだが、最近の編集者はほとんどアカを入れてくれないのだ。文章をチェックしないことはないだろうから、細かなことはパスして、著者の文章を大事にしているのだろう(よくいえば)。※アカとは赤色のペンで書き込むことから、修正や提案のことをそう呼ぶ。編集者と校閲者の共同作業である。

 最近、朝日新聞社が出している『世界の車窓から DVDブック』というシリーズに、シベリア鉄道の記事を書いた。そしたら、どっとアカの入った原稿が返ってきた。他社のために書いた原稿に、これだけアカの入ったものを見たのは何年ぶりのことだろうか。感動した。こんなに丁寧に読んでもらえるなんて、書いた本人としてはうれしい限りである。

 例えばこんな例がある。私は次のように書いた。
──シベリア鉄道はなるべく凍土帯にかからないように、南側の凍土限界ラインに沿って建設されている。
 これに、こう修正したらどうですかとアカが入った。
──シベリア鉄道はなるべく凍土帯にかからないように、凍土帯の南限に沿って建設されている。
 すっきりした文章になった。もちろんOKである。

 こういうアカもある。私はこう書いた。
──ウラン・ウデを出発して4時間、右側の車窓にバイカル湖の姿が見えてきた。
 すると、その脇に次のように書かれていた。
──ウラン・ウデ〜スリュジャンカ間が4時間半なので、湖岸沿いを1時間以上走るのなら、もっと前に見えるのでは?

 スリュジャンカはバイカル湖の南岸にある町である。湖岸沿いを1時間以上走るのなら、計算上ウラン・ウデを出発して少なくとも3時間半後にはバイカル湖が見えるはずではないかといっているのだ。

 私は旅行中につけたノートを見て書いているので、ウラン・ウデを出発して4時間後にバイカル湖が見えたのは事実である。だが、校閲は、行ったこともないところに、想像力を働かせ、地図を見、文章を読んで計算し、それはおかしいのではないかと疑問を投げかけているのだ。

 これはけっこう大変な作業なのである。私が読者なら、ウラン・ウデを出発して4時間でバイカル湖が見えてきたと書かれていれば、ふーん、そうかとそのまま読み流すだけだ。いちいち疑問など湧かない。これは変だぞ、計算が合わないぞと疑問を抱くことが校閲の優れたところであり、丁寧に読んでくれている証しなのである。

 担当編集者も細かなところまで調べてくれた。私はイルクーツクを「シベリアのパリ」と呼んだのはイギリス人ジャーナリストだと書いた。校閲が、チェーホフだという説もあるとアカを入れてきて、それであたらためて調べたら、プーシキン説もあって、どれが本当なのかわからなくなってきた。

 すると編集者がさらにそれを調べ、アントン・チェコフというロシア人なのではないかという説まで引っ張り出してきた。こっちのほうがイギリス人ジャーナリストより前に「シベリアのパリ」と呼んでいるらしいことがわかったのだ。だが、果たしてこの人物が「シベリアのパリ」と呼んだ初めての人物かどうかまでは判明しなかった。

 私がたった一言、イギリス人ジャーナリストがイルクーツクを「シベリアのパリ」と呼んだ、と書いただけで、こういう方々が多くの調べ物をしなくてはならないのだ。それは決して読者にはわからない裏方の仕事である。

 もちろん読者と校閲では立場も読み方も異なるので、読者より校閲がえらいわけではない。しかし、読者が読み飛ばしてしまうようなところでも、文章を丹念に読み込んで、齟齬を来していないか、データに誤りはないか、すっきりした文章にできないかなどなど、細かくチェックしているのである。

 うちもけっこう多くのアカを入れる。時に苛酷なほどのアカを入れることもある。アカが多すぎて不満に思う著者もいるだろうとは思うが、それをさぼったら編集者の資格はないと思うし、読者にも申し訳ないので、できるかぎりのことはやる。書き手によっては自分の原稿に入れられた多くのアカを見て、「こんなに丁寧に見てくださってありがとうございます」と礼を述べる方もいる。そんなときは苦労が報われた気がしてうれしい。

 私は書き手として、校閲が優秀であればあるほど、その出版社に対して信頼感が湧くし、その仕事ぶりに感謝する。私の書いた文章にまったくアカが入らないのであれば、それは単に編集者が右から左へ原稿を受け渡ししただけで、自費出版と同じレベルであると思う。