僕の高校時代──1971〜1975(13/完)サクラ咲く

 神に祈りは通じた。
 待ちに待った合格通知が郵便で届いたのである。
 父や兄からは、補欠に入ったのなら、まず間違いなく合格だろうといわれていたが、世の中何が起きるかわからない。不安におののきながら合格通知を待っていたのだが、本当に届いたときは、うれしいというより、どっと安心した。終わりかけた世界がいきなり復活して花が咲き乱れた気分である。
 もちろん補欠で十分である。入ってしまえば同じことだ。最低の準備で最小の勝利を得るという最大効率の受験作戦が奏効したわけだが、この作戦がこれほど心理的につらいものだということは計算外であった。
 こうやってあとでふりかえると、教師も僕も無理だと考えていたのが、結局のところ父の思惑通りになってしまったわけだ。父よ、あなたは正しかった。だが、僕は本当に苦労した。その父も、息子どもをさんざん困らせて18年前に他界した。
 これで僕の長い長い、とてつもなく長かった受験生活は、すべて完壁に終了した。3カ月間の受験生活という意味ではない。僕の受験生活は、高校受験から、いや中学受験から始まっていたといってもよい。もう二度とごめんだ。金輪際、死んでも繰り返す気はない。勉強もしない。正確には、進級するための最低限の戦略的勉強はするが、それ以上の勉強はしない。僕はそう決めていた。
 というわけで、その後の人生では、避けられるテストは極力避けて生きてきた。おかげで自動車の免許でさえ40代半ばになるまで取得しなかったほどである。ろくに就職試験を受けなかったのも、このときのトラウマのせいかもしれない。
 だいたい有名私立である慶応だったら、法学部だろうが経済学部だろうがどこでもかまいませんという態度で受験しているのだから、実は初めからまじめに勉強する気などないのだ。江川を入学させたほうが、大学の将来のためにはよほど正しい選択だったかもしれない。
 いや、僕だけではない。当時の世の多くの受験生が、何を学びたいかではなく、いかに有名大学に入学できるかに腐心しているのが実情だったのだから、質の悪い大学生が多くなるのも当然である。
  そもそも就職試験もろくに受けないのだから、それじゃいったい何のために苦労して有名大学に入ったのだということになる(そんなアホは漫研友人以外にあまり知らないが)。
 だが、そんなことはもうどうでもいい。こんなのを入学させるもさせないも大学の勝手だ。だからこそ僕は入学できたのだ。法学部という学部に学究の徒としての夢や希望を抱いて入ったわけではなく、もちろん司法試験を受けて弁護士になろうとか、裁判官になろうとか考えていたわけではさらにない。鹿児島から脱出するためには、大学へ入学することが、自分の取りうる唯一の現実的な手段だった。
 そして、誰からも干渉されない自由を手に入れることが、僕には何よりも必要だったのだ。ようやくその自由を手に入れた。これからは心おきなく、自分で選び取ったことだけをやっていける。ようやく自分自身の人生が始まるのだ。そう思うと、うれしさで心が爆発しそうだった。
 余談だが、僕の出身高校は九州大学への合格率が非常に高い高校として知られていた。だが、九州大学でわが高校の評判はあまりよくなかったという。なぜなら、わが高から九州大学に入学した学生は、異常に落第率が高かったのだそうだ。きびしい高校生活から解放され、大学に入るとぜんぜん勉強しなくなっちゃうんですね。だからぼろぼろと落第した。もちろん僕もぜんぜん勉強しない極めつけのアホ学生だった。
 大学に入ると、すぐに漫研に入部した。
 そこで先輩が僕にこういった。
「蔵前、いいか。試験はな、1つのAより3つのCだ」
 つまり最優秀成績Aを獲得するヒマがあったら、及第点すれすれのCを数多く獲得して、漫画を描けということである。これが漫研の格言だそうだ。なんて素敵なクラブなんだろう。
 先輩は、ノートがある課目、簡単にCが取れる課目、卒業論文なしでも単位をくれるゼミなど、さまざまな知恵を僕に授けてくれ、ますますアホ学生への道を突き進んでいったのだった。おかげで大学はなんとか4年と1カ月で卒業した。
 親に多額の金を仕送りしてもらって、贅沢な学生生活を満喫できたのだから、感謝こそすれ恨む筋合いではない。
 しかし、休みに実家に帰るたびに父と口喧嘩し、苦労して東京の大学まで出してやっているのに、まったくおまえはなんでそう反抗ばかりするかと父からはいつもいわれたが、そこに行けといったのは父ちゃん、あんただと反論した。
 僕がやるべきことを、父はつねに独断で決めてきた。たぶんこれは僕の父だけでなく、この時代の父親というのは多かれ少なかれそのようなものだったろう。だから反抗期の波は強烈に高くなる。

 さて、長い話もいよいよこれでおしまいである。最後に、20代終わり頃に起きた奇妙な夢の話をして終わりにする。
 実は、僕は高校卒業後も、しばしば高校生活の悪夢に悩まされていた。自分では楽天的な人間だと思っているし、特に悩みがあるわけでもないのに、ときどき高校の授業やテストが夢に出てきて、みじめな点数しか取れずに教師にきびしく叱責されるという夢を見るのだ。もうサイテーという気分で目覚めたものだった。それが高校卒業後、何年も続いた。
 それがいつだったかよくはおぼえていないのだが、ある夢でまた高校の授業が出てきた。僕の最も苦手だった教師が、理不尽なことで僕を叱責していた。
 いつもであれば、絶望的な気分のまま夢が覚めることになるのだが、その夢で僕は初めてその教師に反論した。
 先生のいっていることはおかしい、納得できません。
 教師は「何を生意気なことを」とさらに怒る。
 僕は、「うるさい!」と教師にいって教室を出て行ったのである。
 そして目が覚めた。
 それ以来、二度と高校時代の悪夢に悩まされることはなくなった。

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 最後までお読みいただきありがとうございました。初めにも書いたが、この話はある雑誌のエッセイ用に書いたもので、ボツになって眠っていた原稿です。それに若干加筆して掲載しました。
 この話の続編にあたるのが、『あの日、僕は旅に出た』(幻冬舎)です。こちらもぜひお読みいただければ幸いです。

あの日、僕は旅に出た

あの日、僕は旅に出た