僕の高校時代──1971〜1975(10)大学受験に失敗

 直前に受けたテストの偏差値をみれば、僕が慶応大学に合格できないことは(父以外の)誰の目にも明らかだった。それでも僕は東京に出ることを心から望んでいたので、無理なこととは知りつつも、できれば合格を願っていた。慶応一本に絞って3学部を受験し、むろん全力を尽くした。
 僕がこのとき受けた3学部の中で、最も合格の可能性の高かったのが法学部政治学科であった(現在では慶応法学部政治学科は驚異的な難関学部になっているらしいが、この当時は慶応の中では最も偏差値が低く、低能大学アホウ学部オセイジ学科などと揶揄されていた)。
 可能性が高いといっても、空を飛ぶ飛行機と走っている新幹線に飛び乗るのはどちらの可能性が高いかを論じるようなもので、どっちみち可能性はゼロに等しいわけだが、それでもそれにすがりたいのが受験生の切ない気持ちというか虫のいい願望なのである。
 しかし、その法学部の試験の答案をほとんど書けないまま終了すると、僕は全身の力が抜けた。合格できないことはあまりにも明らかだったからだ。無理なことは初めからわかっていたが、これほど手も足も出ないとは思わなかった。新幹線に飛び乗る可能性のほうが高いぐらいだ。
 受験生が試験場を出ていくのを、僕はぼんやりと見送った。他の連中はみんな合格し、不合格なのは自分だけなのだというみじめな気分になり、笑いながら出ていく連中の中に混じって帰路につくのがいやだった。劣等感が巨大な固まりになって僕を覆いつくした。
 ようやく受験生の波も引き、人影がほとんどなくなったのを見計らって、僕は門へ向かった。
 うつむきながら門をくぐると、突然外からまばゆい光が浴びせられた。驚いて顔を上げると、そこには何台ものカメラが並んでいた。訳がわからない。何を撮影しているのだ。フラッシュがまたひらめく。
 はっとして後ろを振り向くと、そこには学生服を着て、帽子を目深にかぶった大柄な男が立っていた。それが誰なのかすぐにわかった。
 作新学院のエース、江川卓であった。
 そういえば、江川が慶応を受験すると聞いていたが、同じ法学部だったのか。
 彼が門の外へ出ていくと、報道陣が一斉に彼を取り巻き、大柄なその姿が隠れて見えなくなった。僕はそれをしばらく眺めていたが、彼には同情心が湧いた。彼が不合格になると予感したわけではない。むしろ合格するのだろうと思っていた。しかし、いかに甲子園のスーパースターであろうとも、ここでは一人の受験生に過ぎない。試験が終わってすぐに報道陣に取り囲まれ、試験ができたのかできなかったのかと質問されるのは、どんなに不愉快なことだろうと思ったのだ。試験の結果など発表の日にわかることだ。それを今取材することに何かの意味があるとはとても思えなかった。ばかやろうとつぶやいて、僕は大学をあとにした。
 発表は見るまでもなく、予想通り落ちた。そして江川もまた落ちたことを、その日の夕刊で知った。スポーツタ刊紙の一面トップに、白抜きの巨大な活字でこう印刷されていた。
「江川、三振」
 僕は自分が侮辱されたような気分になって、その新聞を破り捨てた。そして悲しくて泣いた。落ちたことが悲しかったのではなく、鹿児島に帰らなければならないことが悲しかったのだ。
 江川はすぐに法政大学に進学したが、僕には合格した大学はなかったので浪人決定である。しょうがない。問題は、受験勉強をどこでやるかである。鹿児島か、東京か。
 いったん帰省し、これからどうするかという話が家族で持ち上がった。そのとき、兄がこう主張した。
「東京の予備校に行かないと、絶対に東京の大学にはうからない。もし慶応に行かせたいのなら、絶対に東京に行かせるべきだ」
 僕が落ちた慶応に一発で合格し、この年に卒業して家業を継ぐことになっていた兄が、父に強い調子でいってくれたことが決定打となった。おかげで僕はめでたく東京の予備校に行けることになり、以来、僕は兄に頭が上がらない。


鹿児島西駅(現在は鹿児島中央駅)にて。特急富士で友人と上京する。