僕の高校時代──1971〜1975(12)2度目の入試開始

 いよいよ入試がスタートした。てはじめに受けたのが四谷にある上智大学である。ここの試験問題はまったく研究していない。試験場の雰囲気に慣れるのが第一の目的だったから、とにかく試験を受けてみることが大切だった。
 しかし、出てきた英語の問題用紙を見て肝をつぶした。新聞紙大の紙に何ページにもわたって問題が並べられていたのである。長い英語の文章が何問も印刷されているのを見て、すぐに敗北を悟った。こんな問題を解ける実力が自分にないのは先刻承知である。長文の英語読解にはヤマも何もない。お手上げだ。
 しょうがないから訓練のためにやさしい問題だけをやろうと思い、それを選んでいるうちに時間が終わってしまった。
 翌日に臨んだ世界史のテストにはもっと愕然とした。出題されたのは中国史のうち殷についてだった。僕の学習した参考書では、殷とは伝説の王朝ということになっていて、ほんの数行しか触れられていなかったのだ。問題を見ると、殷について様々なことが明らかになっているらしい。僕が勉強をさぼっている間にも学問の進歩が続いてたことがわかって有意義であったが、もちろん結果は不合格。それでも雪の降りしきる中、一応合格発表だけは見にいったのがけなげというか未練であった。
 次に受けたのが、池袋にあるツタのからまる立教大学。ここは高校時代の偏差値では合格圏内にあったのだが、もちろんそんなことは今や何の参考にもならない。要するにヤマの中から出題されるかどうかの勝負であったが、ここも見事にはずれた。不合格。
 この大学に落ちたときは、ちょっとショックだった。自分の学力が、高校時代よりもさらに落ちているのではないかという不安感にさいなまされた。
 しかし、めげてはいられない。入学試験は次々にやってくる。次は青山学院大学だ。本音をいうと、僕自身の学力から見て現実的な志望校はここの国文科だった。合格の可能性が最も高いということと、当時、僕が愛読していたある文芸評論家がここで教鞭を執っていたのだ。
 しかし、国文科などという学部に進学することを父が許す可能性はほとんどなかったので、この大学は父に内緒で勝手に申請したのだった。したがって、これまでの大学はともかく、ここだけは絶対に合格したかった。
 試験の感触はまずまずだった。合格できるかもしれないと手応えを感じながら試験場を出たら、他の受験生の話す声が聞こえた。
「ねえねえ、「武蔵野』ってさあ、誰が書いたんだっけ? あたしわかんなかった」
「ばかだな。島崎藤村だよ」
 この会話を聞いて自信が確信に変わったといってよいであろう。
 もちろん結果は合格であった。

 とりあえず一校の合格をとりつけたことで、鹿児島に帰らずにすむことと、来年も受験勉強をしなくてすむことに僕は一安心したが、国文科では父が学費を出してくれる保証はない。本命はこれから挑む慶応大学、早稲田大学である。
 まず慶応大学法学部(政治学科)の試験があるが、ここが本命中の本命。この学部にうからないと慶応入学はほぼ無理なのである。3カ月の勉強もこの学部試験の研究と対策のためだけにあったといっても過言ではない(興味もないのに、面接に備えて福沢諭吉の『福翁自伝』まで読んだが、これは意外にもおもしろかった)。
 私立大学の入試では数学が苦手で選択しない受験生が多いが、実は、僕の3カ月にわたる研究の結果、ここの数学はアホみたいに簡単であることが解明されていた。気まぐれに過去数年の数学の問題をやってみたら、なんと高校1年生でも簡単に解けそうな問題ばかりが出題されていたのだ。
 それに比べると他の選択科目は難易度がはるかに高い。いくら数学が苦手だといっても、これは数学を取らないと損である。要はそのことに何人の受験生が気がつくかだ。普通は気がつきそうなものだが、それはやってみなければわからない。数学と聞いただけで気が遠くなって、高校3年になると数学を受験課目からはずし、まったく勉強しなくなる私大受験生が多いのだ。そういう人は当然過去の試験問題も見ていないはずだ。
 さて、本番の試験日がやってきた。こちとら去年もここにやってきてるから場所にも戸惑いはない。トイレの位置もわかっている。まったくベテランの強みである。学力の問題ではない。受験とは運と作戦の問題なのだ。
 さあ、数学の問題が配られた。
 問題を見たとたん、私めは、やった! と思いましたね。慶応大学法学部の数学問題作成委員会は、ここ数年の傾向を違えることなく、今年もきちんと超やさしい問題をおつくり下さったのである。世界史および日本史および地理選択の受験生よ、去れ!
 慶応の試験が終わると、僕はなんだか気が抜けてしまった。数学は予想的中でほとんど満点だったと自己採点できたが、それは数学受験者のほとんど全員が同じだろう。問題は得点配分の多い英語の出来不出来にかかっていたが、これができたようなできなかったような、いまいち自分でも判然としないのだ。自己採点しようにも問題の数が多すぎて、自分の答えを全部覚えていない。まあまあではないかというのが自己分析の結果であるが、どうも中途半端。受かったという確信があれば、もう早稲田の試験を受けたくはないし、ダメだと思うのならもう一度気合いを入れ直さなければならない。
 どっちつかずで、いまひとつ気合いが入らないまま早稲田大法学部の試験に挑んだが、これがぜんぜんうまくいかなかった。早稲田の問題は出題数も多いうえに難問やら奇問が多すぎた。世界史などは特にそうで、ヨーロッパの、ある歴史に重要なかかわりを持つ川の名前を答えよ、というのならわかるが、その川の東にある川の名前は何か? という問題には頭を抱えた。こっちはカルトクイズをやってんじゃないんだ!(などと書いたが、これはあくまで僕が受けた当時の印象にすぎず、正確にはこういう問題が出たわけではない)
 まだ早稲田の教育学部の試験が残っていたが、この時点で僕はすでに7学部を受験しており、へとへとになっていた。もう試験を受けるのが嫌になり、結局さぼってしまったのである。
 さあ、これで本命の慶応大法学部がうかっていなかったら大騒ぎである。何してんだ鹿児島に帰ってこいといわれる可能性が高い。そうなったら家出じゃ! と覚悟を決めて合格発表を見にいった。
 これほど緊張した合格発表はない。まさしく人生の岐路といっても過言ではない。頼むから僕の番号よ、合格者リストにあってくれ!
 合格者リストを見た。
 ない……、僕の受験番号がない……。
 本当か? 本当にないのか? 僕は泣きたい気持ちで、一度といわず二度も三度もリストを凝視し、自分の受験番号もさらに確認したが、やはり…………ない。ないものはないのであった。
 がっくり、なんてものではない。世界のすべてが終わったに等しかった。頭の中は真っ白である。
 どうしたらいい。
 そのとき、合格者発表の横に、さらにリストが続いているのが見えた。
 そうだ。まだ補欠リストがある。急いでそのリストを目で追っていくと……、
 あ、あった!
 さっき何度も確認した僕の受験番号が、確かにそのリストに載っている。
 ああ、あったあった。補欠なのか、僕は。
 補欠ということは欠員があったら補うという意味だよな。いったい欠員とは何人出るものなのだろうか。自分のところまでまわってくるのか。こうなったら、慶応大法学部をすべり止めにしているような優秀な正式合格者が、第一希望の大学にうかってくれることを神仏に祈るしかない。自分の合格のために、他人の合格を祈願することになろうとは夢にも思わなかった。そして、補欠でも何でもかまわないから、どうか入学できますように。