僕の高校時代──1971〜1975(8)異色の生徒

 クラスには、僕よりももっと徹底した劣等生がいた。
 その男、山元は、何のためにこの高校に入学したのか理解に苦しむほど勉強を拒否し続けた異色の生徒であった。僕のように勉強するのに疲れて勉強をしなくなったというのではなく、初めからまったく勉強することを拒否しているのだ。勉強しないどころか、出席するのさえまれだった。たまに学校に出てきても、教師からは完全に無視され、校則で禁止された運転免許を取ることだけに熱心な様子だった。
 だからといって粗暴な男だったわけではない。言動は乱暴だったが、この高校で暴力沙汰を引き起こしても孤立するだけだし、それほどの価値もないとはっきり明言していた。
「何かの間違いでこの高校に入っちゃったわけよ」
 昼休みに、珍しく学校にやってきた山元と話をしていたら、彼は笑いながらそういった。僕だって何かの間違いがあって入学したようなものなので、どのような間違いがあったのかは訊かなかった。
「もうすぐ免許が取れる。そしたら、こんなところ二度とくるもんか。すぐにやめてやるよ」
「やめてどうすんの」
「大阪に行く。働くのさ。自分で金を稼ぎたいんだよ」
 僕にとって、学校をやめ、働いて金を稼ぐという考えは遠い夢のような話であった。そんなことが今の自分にできるとはまったく考えもつかなかった。学校はアルバイトを堅く禁止していたし、余分な金を使う暇さえない。喫茶店は出入り禁止。映画は禁止されてはいなかったが、大手を振って見にいける雰囲気になかった。ゲームセンターなどまだない時代だ。田舎町には他に何も娯楽がなかった。
 当時、あきれた議論が教師と生徒のあいだで持ち上がっていた。高校の規則では、生徒が外出するときは制服を着用することが義務付けられていた。生徒は制服など着たくないから、外出するときに私服を着ることを認めて欲しいと要求した。教師は、あくまで高校生として外出時は制服着用であることを譲らなかった。
 それでは、下宿生が銭湯に行くのは「外出」になるのか、ならないのかという議論になった。ばかばかしい話である。なんで風呂に行くのに暑苦しい制服なんぞを着なくちゃならないのか。下宿生はジャージ姿で風呂に行くのが普通だったし、それが問題になったことはなかったのに話の成り行きでその是非が問われることになったのだ。
 教師も困ったことだろう。風呂に行くのに制服を着ろというのも変だが、風呂に行くという名目で私服での外出を許すわけにはいかないのだ。それで教師は、銭湯には私服で行ってもよいが、絶対に銭湯以外の場所に寄り道してはいけないという結論を出した。下宿生たちの一部は、銭湯の行き帰りに喫茶店に入り浸った。
 銭湯の話で思い出したが、同じ下宿の隣りの部屋に変わった同級生がいた。吉松というその男は、狭い部屋に黒板を持ち込んで、それに計算やら書き込みをしながら勉強するという変わった人間だった。チョークの粉が飛び散って服が汚れるので、普段は腕に事務員がするような黒いカバーをしていた。
 で、おもしろいのは、この男が銭湯へ行くときである。彼は僕らのようにだらしないジャージ姿ではなく、ぴしっとしたブレザーを着て行くのだ。不思議に思って、なんでそんなもん着てくんだと尋ねたところ、彼の答えはこうだった。
「外へ出ると、僕はいつも誰かに注目されてるわけだよ。そんなところで、だらしない格好はできないだろう」
 それ以来、ちょっと恐くなって、あまり近寄らないようにした。
 さて、あきれた規則や指導はいろいろあったが、いちばん鷲いたのは、担任の数学教師から小説さえも読むなといわれたことだった。くだらない小説なんか読む暇があったら、英単語の一つでも覚えろという。
 いかな劣等生の僕でも、さすがにそれはおかしいと思い、「それじゃ、現代国語の教科書に出てくる小説はどうなんでしょう」と質問した。
 すると、教師から、教科書だけ読めばいいのだいわれて、僕は返す言葉も勇気もなかった。
 教科書に抜粋された小説の一部だけ読んで、小説のおもしろさが理解できるわけがないではないか。現に僕は、教科書に出ていた太宰治の「御伽草子」の一編に感動して、その文庫全編を読んでさらに感動し、太宰の小説を次から次へ読み進んでいるところだった。豊かな日本語を知らなければ、英語の翻訳もできないということを、この数学教師は知らないのだ。そんな発言を平気でする教師がまったく信用できなくなっていった。
 さすがにこういう暴論を吐くのは、この数学教師だけだったが、ここでは何をいっても無駄なのだ。黙ってこの高校を何とかやり過ごそう。僕はそう心に決めた。
 山元はほどなく免許を取得し、以来まったく学校に出てこなくなった。学校をやめたのかどうか教師からは何の説明もなかった。