僕の高校時代──1971〜1975(7)高校野球

 今回はちょっと横道にそれて、高校生活で数少ない楽しい思い出を書こうと思う。とはいえ、実はこれから書く話は、すでに当ブログで10年前に発表してしまったものだ。だが、あえて加筆して再録する。

 僕の高校は、進学校にありがちなスポーツ弱小校だった。例外的にバスケットボールは何回戦かは勝ち抜けるぐらい強かったが、その他の競技はからきし弱かった。それが、僕が2年のとき野球部に奇跡が起こった。わが高校最初で最後のスーパースターが登場したのだ。そのスーパースター選手は投手で4番打者をつとめ、その大活躍によって並みいる強豪校を片っ端から打ち破っていったのだ。

 僕は友人らと授業をさぼって野球部の応援に行った。授業をさぼるなど、我が校では考えられない蛮行である。だが、我が校が高校野球の予選を勝ち抜くなど、どう考えてもこれが高校史上最初で最後のチャンスである。運良く僕が在校生のときに巡ってきたのだから、これを見逃せば一生後悔する。意を決して鴨池球場に駆けつけた。

 すごい試合だった。相手チームの打球がゴロで内野に転がれば、どうにか捕球した内野手は一塁へ矢のような送球! にはならず、大きな弧を描いてきわどくアウト。打球が外野に飛べば、我が校の外野手は打球を追ってさまようようにふらついてようやくキャッチ。まったくハラハラドキドキの連続である。

 それでも勝つのだから、見る方はこれ以上おもしろいことはない。なにしろ相手チームときたら、例えば定岡で有名な鹿児島実業だの、杉内のいた樟南高校(当時は鹿児島商工)だったりするのだ。外野フライは素早く落下点に入って確実に捕球し、送球は矢のように早く、ランニングひとつにも切れがあり、いかにも鍛えられているのが素人目にも明らかだった。

 そんな強豪高校に、よれよれのチームが勝つんだからたまらない。鹿実も鹿商工もなんでうちの高校に負けたのか理解するのには相当な心の整理が必要だったに違いない。もちろんそれはスーパースターのおかげであり、よれよれでありつつも肝心なところではエラーしなかったバックのおかげである。

 授業をさぼった僕は、教師からもちろん叱責された。覚悟の上だったので、たいしたことはなかったが、納得はいかなかった。なんで母校チームを応援するのを叱られなければならないのか。教師の叱責には説得力もなく、もともと愛校心などなかった僕だが、ますますこの高校が嫌いになった。

 決勝戦では、ついに鹿商工を打ち破り、県大会で優勝を果たした。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぶ。さすがに決勝戦は高校ぐるみで応援に駆けつけた。優勝旗を授けたのが鹿児島県高野連の会長である鹿実の校長だった。その方は、表彰状を読み上げたあと、「まさかこの高校が優勝しようとはまったく想像できませんでした。おめでとう!」と異例のコメントを付け加え、わが高校応援団から万雷の喝采を浴びた。

 鹿児島県大会で優勝したわが高校は九州大会へ進出した。だが、スーパースターが試合前の練習で打球を顔に受け、メガネが破壊されて、裸眼のまま試合に臨み惨敗を期した。予備のメガネがなかったのである。今では考えられない話だが、当時は予備のメガネなんて持っている高校生などまわりには誰もいなかった。それでわが高校野球史の栄光は終わりを告げた。

 この話はもう少し続きがある。かのスーパースター選手は、わが高校最初でたぶん最後のドラフト指名選手となり、3位指名で南海ホークスに入団した。野村克也選手兼任監督の時代だ。そこで当時の1イニング最多失点記録をつくり、投手をあきらめて野手に転向し、しぶいプレイをする選手として活躍した。池之上格というわれらのスーパースターは、今も僕の数少ない晴れやかな高校時代の思い出である。

Wikipedia 池之上格
https://ja.wikipedia.org/wiki/池之上格