僕の高校時代──1971〜1975(5)深夜放送とフォークとプログレ

 じょじょに、僕は勉強に倦んでいった。成績が上がらないからというより、こんな生活にうんざりしてきたのだ。
 僕は高校に入るのにもざんざん受験勉強をやらされた。もともとこの高校は自分の学力からすればレベルの高すぎる学校だった。中学の進路指導では、合格は難しいからレベルを落とすようにと忠告されたのを、父が聞き入れず、無理に無理を重ねて受験したのだ。
 僕の父は変わった人間で、いわゆる「教育パパ」というか、一種の「大学オタク」だった。普通、志望校というのは受験生自身の意思が尊重されるべきものだが、我が家では父がすべてを決定した。僕はどこの高校や大学に行きたいかなどと聞かれたことは一度もない。僕自身はほとんど読んだことはなかったが、父は自分が読むために「蛍雪時代」を定期購読していたほど受験については熱中していた。
 父は普通の教育パパとは少し違っていた。大学に対する執着が異常なほど強かったのだ。それは息子の大学受験に対してもそうだったし、自分が卒業した母校に対しても強く関わりを持ちたがっていた。自分が卒業した母校のOB団体に所属することはもちろん、OB理事にも就任し、上京するたびに母校キャンパスを訪問していた。
 僕が子どもの頃は、毎日のように旧制高校の校歌や寮歌を聴かされていたので、僕は僕の年代にしては珍しく一高寮歌(「ああ、玉杯に花うけて」という歌ですね)だの、北大寮歌(「都ぞ弥生の雲紫に」という歌だ)なんてのを口ずさむことができるのである。父にとって大学時代というのはよほどすばらしかったのであろう。そのために、大学に関する知識は僕よりよほど深く、当然僕が行くべき学校も父が決定した。
 それが僕の学力に見合っていれば僕もそれほど異存はないのだが、現実より理想を追うタイプなので、受ける方の身にもなってくれと僕はいいたかったが、もちろんいうだけ無駄なのはわかっていた。この高校も、次に受験する大学も父の決定だが、実は中学もラサールに行けといって受験させられた(もちろん合格とはほど遠い成績しか残せなかった。ラサール中学の入学試験が始まる直前、ラサール中学の校長先生が全校アナウンスで『落ちでも人生は終わりではありません』というようなことをいったのを今でも妙に覚えている。僕はその通りだと思ったよ)。だから、僕は小学生の頃から受験勉強をやらされていたのである。
 高校に入れば、こんなに勉強なんかしなくてもいいんだから、今だけはがんばれと励まされてきびしい受験勉強をこなし、ようやくのことで高校入学を果たしたのであった。
 それが、入ってみたら、さらなる地獄が待っていたというわけだ。親にだまされたような気分だったし、それはともかく、精神的にも肉体的にもかなりつらい生活だった。
 今考えれば、そう感じる自分がいかに正常な普通の人間であったかわかるが、その頃は脱落者という感じである。机の前に座って教科書を広げても、ラジオから流れる音楽をぼーっと聴くだけで集中できない。誰かに監視されているわけでもないのに、勉強をするふりだけしていた。とりあえず深夜まで起きて努力したという言い訳が欲しかったのかもしれない。
 毎晩、深夜放送ばかり聴いていた。「オールナイトニッポン」や「セイヤング」や「パックインミュージック」や「走れ歌謡曲」を聴き、時にはそのあとの「宗教の時間」や「バロック音楽のすすめ」まで聴いた。早朝の寝ぼけた頭にバロック音楽はすがすがしかった。
 ラジオに飽きると、当時流行のフォークソングに夢中になった。岡林信康などの「反戦フォーク」の時代は数年前に過ぎ、フォークがメジャー化してきた頃でもあった。吉田拓郎が「結婚しようよ」で大ヒットを飛ばしてフォーク集会で「帰れコール」を投げつけられ、かぐや姫が「神田川」をヒットさせて「四畳半フォーク」と呼ばれ、シンガーソングライターという言葉がもてはやされた。サッカーの日本代表チームを応援するときに歌われた「翼を下さい」もこの頃流行した歌で、あれは応援歌というより、自分の閉塞的な状況から逃れたいという意味で歌われていたものだった。先輩から教わった簡単なギターのコードでひっそりと歌っていたが、夜中にそんなことばかりやっていたので、勉強はますますおろそかになるばかりである。
 そんな頃、クラスの刈谷という男と、自分が好きな音楽の話をした。僕がフォークが好きだというと、刈谷はさもバカにしたような顔をして、キング・クリムゾンというイギリスのバンドの話を始めた。
 全然わからない。どういう歌なのだと訊くと、言葉ではなかなか説明しづらいから一度聴いてみろといい、「クリムゾン・キングの宮殿」というグロテスクな絵が描かれたLPレコードを貸してくれた。口を広げた化け物のような赤い顔が、ジャケットからはみ出さんばかりの大きさで描かれていたが、そのデザインだけですでに異様だった。
 下宿に帰って聴いた。
 驚きで声も出なかった。刈谷はこれをプログレッシブ・ロックというものだと教えてくれたが、デザイン通り実に異様な音楽だった。そして衝撃的だった。僕にとって歌というのは、まず前奏があり、歌が始まって徐々に盛り上がっていき、だいたい1曲4、5分で終わると、おおまかにいえばそのようなものだった。ところがキング・クリムゾンはLPレコードの裏と表約45分を幾つかの組曲で構成した音楽だった。ロックといったが、クラシックのような構成なのだ。そんなことは現在では驚くようなことではないし、実は1967年に出たビートルズの「サージェント・ペッパー」でもそれに近いことはすでに行われていたのだが、そんなことをまったく知らない僕は、ただただ圧倒された。音の厚みも深さも、それまで僕の知っている「歌」とはぜんぜん違うものだった。
 これはすごい。僕は刈谷に、ものすごくよかったと感想を述べると、彼も喜んで、次にピンク・フロイドの「原子心母」と「狂気」というレコードを貸してくれた。バンドの名前もアルバムタイトルも、なんだか哲学的でものすごくかっこよい。「原子心母」のジャケットにあった乳牛の写真も不思議で神秘的な感じがしたし、「狂気」は全面真っ黒で、プリズムから虹色の光が出ているという、これまた非常に斬新なデザインだった。下宿に持ち帰ってすぐにプレーヤーにのせた。
 かっこよかった。とにかくすごい。こんな音楽が世の中にはあるのかと僕は思った。今まで聴いていた音楽はいったい何だったんだ。まるで比べものにならない。僕はそれからプログレッシプ・ロックと呼ばれるロックに夢中になり、レコードをテープに録音し、FMをまめに録音して、勉強そっちのけで聴きまくった。当然、睡眠不足になる。勉強もしないで深夜政送を聴き、ロックを聴き、1日4、5時間しか眠らないのだから、頭はいつも朦朧としており、授業中に居眠りをするようになった。ただでさえ授業についていくのが難しいのに、勉強不足と集中力の欠如でますます理解不能になり、理解不能になるともっと眠くなった。正座なんてぜんぜん気にならなくなり、机の陰に隠れて堂々と居眠りできることも発見した。
 そうなると押しも押されもせぬ劣等生。これまではまだしも希望のもてる劣等生だったのが、これ以降は下降線を描く完全無欠の劣等生である。350番だったのが400番に落ち、結局450番台まで下がって元の位置に舞い戻ってしまったのであった。
 2年生に上がる頃には、正直いって、もうどうでもいいやと思っていた。教師は、どうしたんだ、体の具合でも悪いのかと親切に尋ねてくれたが、もうごみ箱の中を覗かれるのはいやだったし、成績を上げることしか関心のないアドバイスなど僕には何の意味もなかった。