写真集『ディア・インディア』(1)掘井太朗さんのこと

 今度、旅行人から写真集を出すことになった。『ディア・インディア』という写真集だ。
 FACEBOOKでたまたま見た掘井太朗さんという写真家の、インドの写真に心をひかれ、写真集を作ってみようと考えたのだ。

 掘井さんは石垣島に住んでいる。職業は写真家ではなく陶芸家だ。1963年に兵庫で生まれ、子どもの頃から『十五少年漂流記』や『ガリバー旅行記』を読んで、旅行に強い憧れを抱いていた。そこで世界中を旅してまわれると思って船乗りになる。貨物船の甲板員として働いたのだ。
 22歳になってインドやヨーロッパをめぐるおよそ2年の長い旅に出る。まだこの時点では写真家になろうとは思わない。帰国後、長野のキャンプ場で一夏働いたあと、さてどうするか考えた。
 選択肢は2つ。ログビルダーか写真か。
 ログビルダーは田舎暮らしにも憧れていたからだそうだ。その一方、写真をやれば旅ができるかもしれないとも考えていた。さらに、旅行の最中にオーストリア写真屋でプリントしたネパールの写真を、写真屋から上手だねとほめられたことが強く印象に残ったからではないかと彼はいう。些細な言葉がその後の人生を左右することもあるという一例だ。
 田舎暮らしか旅かで迷った結果、旅を選択した掘井さんは写真学校に行き、中退してまた旅に出る。ニューヨークでマグナムなどに写真を持ち込んだものの採用されず、帰国後、日本の出版社を数社まわったが、やはり採用にはならなかった。
 実は、その旅の最中にデリーのハニーゲストハウスで僕と出会っている。僕はぜんぜん覚えていませんが。それで、凱風社の話を聞いて、インドの写真を凱風社に持ち込んだが、ここでもアウト。何が撮りたいのか自己アピールが足りないと凱風社に説教をくらったようだ。お気の毒に。
 1994年に再びインドへ向かう。そこで現在の奥様と出会って帰国後に結婚。翌年には長女が誕生し、さてこれからどうするのか、掘井さんは考えた。
 この写真集に出てくるのだが、掘井さんはインドで家族が砂漠を戻っていく情景を、懐かしさと寂しさを感じながらシャッターを切っている。それまで人の人生、他人の生活をカメラで撮ってきたが、自分の生活は何なのだと感じたという。これからは自分の生活をしたい。そう考えた掘井さんは沖縄へ向かう。かつて日本中を旅していたころに、もっとも心に残ったのが沖縄だった。いつかは沖縄に住みたいという思いが心の中にあったのだ。以前あった田舎暮らしの夢がここでかなうことになるのだ。
 もう人に使われて仕事はしたくない。そう思った彼には、ふたたび2つの選択肢があった。
 農業か陶芸か。
 農業は人に使われず、自立して生活できる。
 陶芸は、小学生のころ、粘土細工が上手だねと学校の先生にほめられたことが強く印象に残っていたからではないかと彼はいう。ここでも大人の些細な一言が人生を左右することが証明されている。
 とはいえ、それまでまったく陶芸には興味がなく、もちろん知識も何もない。農業の片手間に陶芸をやろうと考えていたのだが、奥様に、陶芸の片手間に農業をやろうといわれてそうなったそうだ。昔の先生の言葉より身近な妻の言葉は強い。
 その後、2007年にまたインドへ行く。12年に一度の大祭クンブメーラの撮影のためだ。どうしてももう一度これを撮って形にしたかったと彼はいう。その写真も、もちろんこの写真集に収められている。
 その彼が、写真の整理を兼ねてか、たまたまフェイスブックに載せた写真を僕は見る。フェイスブックで友達リクエストをもらったとき、デリーで会ったことがあると掘井さんに説明されたが、ぜんぜん覚えていないので初対面とほぼ同じである。
 何の因果か、このような出会いと再会を果たし、僕は掘井さんの写真集を出すことになった。
 次回は、その写真集を作り上げる話を書いてみたい。


追記】掘井さんからメッセージが届きました。1989年のことですかね。
 ハニーGH(のちのウッパハールですか)のドミトリーに逗留していたとき、誰かが、パヤルにゴーゴーインドの蔵前さんが泊まっていると言ったんです。
 するとその夜、蔵前さんがハニーGHにふらりと遊びに来られたんですね。(そこまでは憶えてらっしゃいますか?)
 5、6人の日本人旅行者が蔵前さんを囲むかたちで、しばらくして(7文字削除)と記憶しています。
 そしたら蔵前さんがその一人一人に、日本では何しているの? って聞いたんですね。学生です、とか何なに・・・と、自分の番になって、写真をやってますと答えました。そしたら、凱風社を紹介していただいたのです。
 まあ、それだけの事でして、蔵前さんのハニーGH滞在は一時間くらいじゃなかったでしょうか。
 そのあと、アフリカに向かうと仰っていたのを覚えています。

空き家探し

 先日、友人の貸家を探しに、山梨の山の村を訪ねた。
 そのひとつ、10件ほどの集落は今は無人になっていて、墓だけが真新しかった。最後の住民が引っ越してまだ間もないのだろう。数軒の家はまだ状態がよく、すぐにでも住めそうな雰囲気だったが、周辺の方の話によれば、冬は除雪車も入らず、雪で行き来がまったくできなくなるらしい。眺めのいい場所だったが、雪で孤立する場所には住めそうもない。
 他にも空き家をあちこち当たってみたが、なかなか貸してくれる家はない。誰かが住んだほうが家にもいいのは家主もわかっているのだが、それが簡単ではないらしい。
 家主が亡くなっている場合、相続権を持つ人が何人もいる。それが日本中に散らばっていることもあり、貸すとなると小さいながらも利益が発生するので、そういった人々の了解を得なければならないのだ。わずかな貸し賃のために、そんなめんどくさいことは誰もやりたがらない。当然だ。そして家に残された荷物を誰がどう処分するのかも決まらない。勝手に処分はできないのだ。
 そういえば、福島でも地震の後の復興のために、壊れた家をなかなか撤去できずに困っている地方自治体があった。役場で家の相続人を調べ上げ、数年かけて日本中の相続人からハンコをもらったといっていた。そういう問題が日本中で発生しているのだ。
 だから、人に貸すのをやめて、お盆、あるいは月命日の墓参りに寝泊まりするのに、今も少しだけ使っているという人も多かった。そういう家はよく手入れされている。
 公共機関の空き家バンクに登録して売却・賃貸ができる家は、まだ幸運な方だったということが初めてわかった。




『親の介護、はじまりました』(堀田あきお&かよ)を読む

 老いた親の介護はほとんどの人が一度は通る大問題。老齢化社会になった日本で、多くの人々が直面することだ。そうはいっても、実際にそのような局面にあたらないと具体的な問題も見えず、どういうことになるのか想像さえ付きにくい。
 この本は、突然母の介護問題に直面した著者の堀田さんたちが、自分たちの介護体験をユーモラスに描いた作品だ。ほぼ実話であろうと想像するが、仕事を抱えながら母の介護のために足しげく実家と病院に通う彼らの介護体験は、やはり苦労の連続だ。
 実際にやったものでないとわからない具体的な介護体験が描かれているので、今後このような状況に置かれるかもしれない読者(僕もその一人)には参考になることがいろいろ描かれているし、なにより介護ということが具体的にイメージできることが助けになると思う。
 さて、以上のことは、いわばこの本の骨格のようなものだ。たぶんそれだけだったら、僕はこの本を読み進むことはなかっただろう。この本のおもしろさ―――介護に無関心な方が読んでもおもしろく読める(かもしれない)ところは、ひとえにこの作品の強烈な登場人物にある。
 それは介護されるご本人である堀田さんの母と、同居する父のお二方だ。小さくて気が弱く、認知症が進みつつある母と、わがままで気が利かない乱暴な父。この二人の生活を読むだけではらはらどきどきの連続だ。
 僕はずいぶん前に両親を亡くしているが、生前の姿を見ていて、仲むつまじい老夫婦などという幻想は抱かなくなった。義父も数年前に亡くなり、義母の面倒を妻が行っているが、年々老いていく義母の様子を見ていると、老いは性格を丸くしたり、穏やかにするとは必ずしもいえないということも薄々はわかっている。
 だが、それでも堀田さんちのご両親には驚きの連続だ。母親はともかく、父親の方は言語道断である。僕も晩年の父親にはずいぶん泣かされたが、このお方に比べればうちの父はいくぶんまともだったとさえ思える(死んでから時間がたったせいもあるだろうが)。
 介護の必要な母親のことはいっさいおかまいなしで、自分の好きなように暮らし、世話はまったくしない。母親はもう硬いものは食べられないのだが、父親は自分の好きなものしか買ってこないので、食事も満足にできない。そこで介護ヘルパーに柔らかい食べ物を持ってきてもらうと、なんとそれを父親が食べてしまうのだ!
 他にもこれに類するエピソードが次々に出てきて、こんなやつがいていいのか。てめえ何考えてるんだ! と思わず漫画に向かって叫んでしまうほどである(いや作品の中でも著者のかよさんが叫んでますけどね)。この強烈な父親と、これまた個性豊かな母親が織りなす老夫婦のドラマは、人生の終末期が決して穏やかなものにならないことを示してくれる。悲しいかな、それが人間なのか。
 そういったなか、認知症が進む母親が見せる人としてのプライド、人生の喜び、怒り、悲しみを受け止める娘のかよさんはこう思う。
「お母さんの人生って何だったのだろう。お母さんは今まで幸せを感じたことがあったのかな」
 でもお母さんはかよさんにこう答える。
「私の人生はこれでよかったんだよ、あんたが生まれてきてくれたからね」
 母の人生とはいったいなんだったのか。
 僕の母が死んでから17年たつが、今もときどき考えることがある。
 僕の母は幸せだったのだろうか。
 不幸だったとは思わないが、つらいことも多かっただろう。
 僕は母とこんな親密な言葉を交わしたことはないが、もし尋ねたらこう答えてくれただろうか。
 そして気がつくと、母が亡くなった年齢まであと10年。ひたひたと人生の終末が迫っている。

地図のこと

 長い間しまいっぱなしだった古い資料や地図などを処分している。旅行人でガイドブックなどを制作するための地図ではなく、僕の、取材や個人的な旅に使った地図なのだが、それでも長年のあいだに箱いっぱいどころか、書棚やファイルのあちこちにさまざまな地図が保存してあり、ほとんど未整理にままなので、結局のところ、こういう古い地図が再度役に立つということはほとんどなかった。

 さて、その地図の箱を開けたら、初めてインドを長く旅したときに使った地図が出てきた。そこにはおよそ1年半の旅のあいだにたどったルートが描かれていた。気分次第で目的地を決めていたので、ルートは脈略がなく無駄が多い。旅行人を始めてからは期間はほぼ1カ月で、それも取材だったので、こんな無駄なルートでまわったりはしなかった。昔は一ヵ所にいたいだけいられたから、本当に旅はほぼ無駄なことばかりだった。それが楽しかったのだけど。
※地図の画像はかなり大きく拡大して見られます。

 その次の地図は、1984年、初めて中国を旅したときのもの。この地図は中国で買った。3カ月の割に移動距離が長い。この時代は旅行者が入れる地域がまだ限られていて、行けるところはめいっぱいまわろうとした(が、力尽きた)。

 当然といえば当然だが、旅をするまでは地図などほとんど興味もなく、実際に使ったこともなかった。せいぜい町の地図で初めての仕事先に行くぐらいだったが、旅に出ると、いやおうなく地図をにらむ時間が多くなる。
 インドで使った地図は、たしか日本から持参したものだが、幹線道路や支線などのちがい、あるいは町のおおよその規模がわかる程度だった。地図とはそういうものだろうと、このときの僕は考えていたのだが、その認識が大きく変わったのは、アフリカへ行ってミシュランの地図を使い始めたときのことだ。
 今の日本人の多くは、ミシュランといえばレストランガイドがピンとくるだろうが、僕はこのとき(1990年)タイヤメーカーのミシュランしか知らなかった。タイヤメーカーのミシュランが地図なんか作っているのかと意外な気がしたものだ。
 だが、そもそもはタイヤを売るために、自動車にもっと乗って欲しくて、レストランガイドや地図を製作したものらしい。それだったらたしかにつじつまが合う。
 それで、そのミシュランの地図を見るとガイドブックのような情報がそこに載っているのだ。道路は舗装路、未舗装路、建設中、風景のいい場所、雨季になると通れない場所まで記載されている。ホテルやレストランがある町かもわかるし、キャンプ場も載っている。地図1枚でこれほどいろいろなことがわかるのかと驚いたものだった。

 もっともそれは、情報が少ないアフリカの旅だったせいだろう。アフリカでなければキャンプ場の場所など必要ないし、町にはホテルやレストランなどあるのが当たり前だからだ。インドでこんな情報をいちいち記載していたら、地図はホテルとレストラン情報で埋め尽くされてしまう。しかし、アフリカの旅でミシュランの地図ほど頼りになるものはなかった。
 そのような思い出の詰まった地図もろもろを、このたび一気に廃棄してしまうことにした。捨ててしまうと記憶からも消えてしまうだろうが、持っていても再び見ることはないだろう。使うのなら新しい地図の方がいいし、今やスマートフォンタブレットに出てくる地図を見ると、GPSによって現在位置がわかるのだから、もうそろそろ紙の地図の時代も終わりだろう。
 それでも紙の地図を広げて、ぼんやり眺めるのは楽しいものだが、僕としては、地図をぼんやり眺められるような旅をまたしなくちゃなと思う。まあ、また紙の地図を現地で買うことになるんだろうが。

僕の高校時代──1971〜1975(13/完)サクラ咲く

 神に祈りは通じた。
 待ちに待った合格通知が郵便で届いたのである。
 父や兄からは、補欠に入ったのなら、まず間違いなく合格だろうといわれていたが、世の中何が起きるかわからない。不安におののきながら合格通知を待っていたのだが、本当に届いたときは、うれしいというより、どっと安心した。終わりかけた世界がいきなり復活して花が咲き乱れた気分である。
 もちろん補欠で十分である。入ってしまえば同じことだ。最低の準備で最小の勝利を得るという最大効率の受験作戦が奏効したわけだが、この作戦がこれほど心理的につらいものだということは計算外であった。
 こうやってあとでふりかえると、教師も僕も無理だと考えていたのが、結局のところ父の思惑通りになってしまったわけだ。父よ、あなたは正しかった。だが、僕は本当に苦労した。その父も、息子どもをさんざん困らせて18年前に他界した。
 これで僕の長い長い、とてつもなく長かった受験生活は、すべて完壁に終了した。3カ月間の受験生活という意味ではない。僕の受験生活は、高校受験から、いや中学受験から始まっていたといってもよい。もう二度とごめんだ。金輪際、死んでも繰り返す気はない。勉強もしない。正確には、進級するための最低限の戦略的勉強はするが、それ以上の勉強はしない。僕はそう決めていた。
 というわけで、その後の人生では、避けられるテストは極力避けて生きてきた。おかげで自動車の免許でさえ40代半ばになるまで取得しなかったほどである。ろくに就職試験を受けなかったのも、このときのトラウマのせいかもしれない。
 だいたい有名私立である慶応だったら、法学部だろうが経済学部だろうがどこでもかまいませんという態度で受験しているのだから、実は初めからまじめに勉強する気などないのだ。江川を入学させたほうが、大学の将来のためにはよほど正しい選択だったかもしれない。
 いや、僕だけではない。当時の世の多くの受験生が、何を学びたいかではなく、いかに有名大学に入学できるかに腐心しているのが実情だったのだから、質の悪い大学生が多くなるのも当然である。
  そもそも就職試験もろくに受けないのだから、それじゃいったい何のために苦労して有名大学に入ったのだということになる(そんなアホは漫研友人以外にあまり知らないが)。
 だが、そんなことはもうどうでもいい。こんなのを入学させるもさせないも大学の勝手だ。だからこそ僕は入学できたのだ。法学部という学部に学究の徒としての夢や希望を抱いて入ったわけではなく、もちろん司法試験を受けて弁護士になろうとか、裁判官になろうとか考えていたわけではさらにない。鹿児島から脱出するためには、大学へ入学することが、自分の取りうる唯一の現実的な手段だった。
 そして、誰からも干渉されない自由を手に入れることが、僕には何よりも必要だったのだ。ようやくその自由を手に入れた。これからは心おきなく、自分で選び取ったことだけをやっていける。ようやく自分自身の人生が始まるのだ。そう思うと、うれしさで心が爆発しそうだった。
 余談だが、僕の出身高校は九州大学への合格率が非常に高い高校として知られていた。だが、九州大学でわが高校の評判はあまりよくなかったという。なぜなら、わが高から九州大学に入学した学生は、異常に落第率が高かったのだそうだ。きびしい高校生活から解放され、大学に入るとぜんぜん勉強しなくなっちゃうんですね。だからぼろぼろと落第した。もちろん僕もぜんぜん勉強しない極めつけのアホ学生だった。
 大学に入ると、すぐに漫研に入部した。
 そこで先輩が僕にこういった。
「蔵前、いいか。試験はな、1つのAより3つのCだ」
 つまり最優秀成績Aを獲得するヒマがあったら、及第点すれすれのCを数多く獲得して、漫画を描けということである。これが漫研の格言だそうだ。なんて素敵なクラブなんだろう。
 先輩は、ノートがある課目、簡単にCが取れる課目、卒業論文なしでも単位をくれるゼミなど、さまざまな知恵を僕に授けてくれ、ますますアホ学生への道を突き進んでいったのだった。おかげで大学はなんとか4年と1カ月で卒業した。
 親に多額の金を仕送りしてもらって、贅沢な学生生活を満喫できたのだから、感謝こそすれ恨む筋合いではない。
 しかし、休みに実家に帰るたびに父と口喧嘩し、苦労して東京の大学まで出してやっているのに、まったくおまえはなんでそう反抗ばかりするかと父からはいつもいわれたが、そこに行けといったのは父ちゃん、あんただと反論した。
 僕がやるべきことを、父はつねに独断で決めてきた。たぶんこれは僕の父だけでなく、この時代の父親というのは多かれ少なかれそのようなものだったろう。だから反抗期の波は強烈に高くなる。

 さて、長い話もいよいよこれでおしまいである。最後に、20代終わり頃に起きた奇妙な夢の話をして終わりにする。
 実は、僕は高校卒業後も、しばしば高校生活の悪夢に悩まされていた。自分では楽天的な人間だと思っているし、特に悩みがあるわけでもないのに、ときどき高校の授業やテストが夢に出てきて、みじめな点数しか取れずに教師にきびしく叱責されるという夢を見るのだ。もうサイテーという気分で目覚めたものだった。それが高校卒業後、何年も続いた。
 それがいつだったかよくはおぼえていないのだが、ある夢でまた高校の授業が出てきた。僕の最も苦手だった教師が、理不尽なことで僕を叱責していた。
 いつもであれば、絶望的な気分のまま夢が覚めることになるのだが、その夢で僕は初めてその教師に反論した。
 先生のいっていることはおかしい、納得できません。
 教師は「何を生意気なことを」とさらに怒る。
 僕は、「うるさい!」と教師にいって教室を出て行ったのである。
 そして目が覚めた。
 それ以来、二度と高校時代の悪夢に悩まされることはなくなった。

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 最後までお読みいただきありがとうございました。初めにも書いたが、この話はある雑誌のエッセイ用に書いたもので、ボツになって眠っていた原稿です。それに若干加筆して掲載しました。
 この話の続編にあたるのが、『あの日、僕は旅に出た』(幻冬舎)です。こちらもぜひお読みいただければ幸いです。

あの日、僕は旅に出た

あの日、僕は旅に出た

僕の高校時代──1971〜1975(12)2度目の入試開始

 いよいよ入試がスタートした。てはじめに受けたのが四谷にある上智大学である。ここの試験問題はまったく研究していない。試験場の雰囲気に慣れるのが第一の目的だったから、とにかく試験を受けてみることが大切だった。
 しかし、出てきた英語の問題用紙を見て肝をつぶした。新聞紙大の紙に何ページにもわたって問題が並べられていたのである。長い英語の文章が何問も印刷されているのを見て、すぐに敗北を悟った。こんな問題を解ける実力が自分にないのは先刻承知である。長文の英語読解にはヤマも何もない。お手上げだ。
 しょうがないから訓練のためにやさしい問題だけをやろうと思い、それを選んでいるうちに時間が終わってしまった。
 翌日に臨んだ世界史のテストにはもっと愕然とした。出題されたのは中国史のうち殷についてだった。僕の学習した参考書では、殷とは伝説の王朝ということになっていて、ほんの数行しか触れられていなかったのだ。問題を見ると、殷について様々なことが明らかになっているらしい。僕が勉強をさぼっている間にも学問の進歩が続いてたことがわかって有意義であったが、もちろん結果は不合格。それでも雪の降りしきる中、一応合格発表だけは見にいったのがけなげというか未練であった。
 次に受けたのが、池袋にあるツタのからまる立教大学。ここは高校時代の偏差値では合格圏内にあったのだが、もちろんそんなことは今や何の参考にもならない。要するにヤマの中から出題されるかどうかの勝負であったが、ここも見事にはずれた。不合格。
 この大学に落ちたときは、ちょっとショックだった。自分の学力が、高校時代よりもさらに落ちているのではないかという不安感にさいなまされた。
 しかし、めげてはいられない。入学試験は次々にやってくる。次は青山学院大学だ。本音をいうと、僕自身の学力から見て現実的な志望校はここの国文科だった。合格の可能性が最も高いということと、当時、僕が愛読していたある文芸評論家がここで教鞭を執っていたのだ。
 しかし、国文科などという学部に進学することを父が許す可能性はほとんどなかったので、この大学は父に内緒で勝手に申請したのだった。したがって、これまでの大学はともかく、ここだけは絶対に合格したかった。
 試験の感触はまずまずだった。合格できるかもしれないと手応えを感じながら試験場を出たら、他の受験生の話す声が聞こえた。
「ねえねえ、「武蔵野』ってさあ、誰が書いたんだっけ? あたしわかんなかった」
「ばかだな。島崎藤村だよ」
 この会話を聞いて自信が確信に変わったといってよいであろう。
 もちろん結果は合格であった。

 とりあえず一校の合格をとりつけたことで、鹿児島に帰らずにすむことと、来年も受験勉強をしなくてすむことに僕は一安心したが、国文科では父が学費を出してくれる保証はない。本命はこれから挑む慶応大学、早稲田大学である。
 まず慶応大学法学部(政治学科)の試験があるが、ここが本命中の本命。この学部にうからないと慶応入学はほぼ無理なのである。3カ月の勉強もこの学部試験の研究と対策のためだけにあったといっても過言ではない(興味もないのに、面接に備えて福沢諭吉の『福翁自伝』まで読んだが、これは意外にもおもしろかった)。
 私立大学の入試では数学が苦手で選択しない受験生が多いが、実は、僕の3カ月にわたる研究の結果、ここの数学はアホみたいに簡単であることが解明されていた。気まぐれに過去数年の数学の問題をやってみたら、なんと高校1年生でも簡単に解けそうな問題ばかりが出題されていたのだ。
 それに比べると他の選択科目は難易度がはるかに高い。いくら数学が苦手だといっても、これは数学を取らないと損である。要はそのことに何人の受験生が気がつくかだ。普通は気がつきそうなものだが、それはやってみなければわからない。数学と聞いただけで気が遠くなって、高校3年になると数学を受験課目からはずし、まったく勉強しなくなる私大受験生が多いのだ。そういう人は当然過去の試験問題も見ていないはずだ。
 さて、本番の試験日がやってきた。こちとら去年もここにやってきてるから場所にも戸惑いはない。トイレの位置もわかっている。まったくベテランの強みである。学力の問題ではない。受験とは運と作戦の問題なのだ。
 さあ、数学の問題が配られた。
 問題を見たとたん、私めは、やった! と思いましたね。慶応大学法学部の数学問題作成委員会は、ここ数年の傾向を違えることなく、今年もきちんと超やさしい問題をおつくり下さったのである。世界史および日本史および地理選択の受験生よ、去れ!
 慶応の試験が終わると、僕はなんだか気が抜けてしまった。数学は予想的中でほとんど満点だったと自己採点できたが、それは数学受験者のほとんど全員が同じだろう。問題は得点配分の多い英語の出来不出来にかかっていたが、これができたようなできなかったような、いまいち自分でも判然としないのだ。自己採点しようにも問題の数が多すぎて、自分の答えを全部覚えていない。まあまあではないかというのが自己分析の結果であるが、どうも中途半端。受かったという確信があれば、もう早稲田の試験を受けたくはないし、ダメだと思うのならもう一度気合いを入れ直さなければならない。
 どっちつかずで、いまひとつ気合いが入らないまま早稲田大法学部の試験に挑んだが、これがぜんぜんうまくいかなかった。早稲田の問題は出題数も多いうえに難問やら奇問が多すぎた。世界史などは特にそうで、ヨーロッパの、ある歴史に重要なかかわりを持つ川の名前を答えよ、というのならわかるが、その川の東にある川の名前は何か? という問題には頭を抱えた。こっちはカルトクイズをやってんじゃないんだ!(などと書いたが、これはあくまで僕が受けた当時の印象にすぎず、正確にはこういう問題が出たわけではない)
 まだ早稲田の教育学部の試験が残っていたが、この時点で僕はすでに7学部を受験しており、へとへとになっていた。もう試験を受けるのが嫌になり、結局さぼってしまったのである。
 さあ、これで本命の慶応大法学部がうかっていなかったら大騒ぎである。何してんだ鹿児島に帰ってこいといわれる可能性が高い。そうなったら家出じゃ! と覚悟を決めて合格発表を見にいった。
 これほど緊張した合格発表はない。まさしく人生の岐路といっても過言ではない。頼むから僕の番号よ、合格者リストにあってくれ!
 合格者リストを見た。
 ない……、僕の受験番号がない……。
 本当か? 本当にないのか? 僕は泣きたい気持ちで、一度といわず二度も三度もリストを凝視し、自分の受験番号もさらに確認したが、やはり…………ない。ないものはないのであった。
 がっくり、なんてものではない。世界のすべてが終わったに等しかった。頭の中は真っ白である。
 どうしたらいい。
 そのとき、合格者発表の横に、さらにリストが続いているのが見えた。
 そうだ。まだ補欠リストがある。急いでそのリストを目で追っていくと……、
 あ、あった!
 さっき何度も確認した僕の受験番号が、確かにそのリストに載っている。
 ああ、あったあった。補欠なのか、僕は。
 補欠ということは欠員があったら補うという意味だよな。いったい欠員とは何人出るものなのだろうか。自分のところまでまわってくるのか。こうなったら、慶応大法学部をすべり止めにしているような優秀な正式合格者が、第一希望の大学にうかってくれることを神仏に祈るしかない。自分の合格のために、他人の合格を祈願することになろうとは夢にも思わなかった。そして、補欠でも何でもかまわないから、どうか入学できますように。

僕の高校時代──1971〜1975(11)花の浪人生活

 東京である。
 ついに上京した。
 もう高校に行かなくてもいい。親から遠く離れられたとたん幸福感が僕の全身を包んだ。あまりにも幸福だったせいで、肝心の予備校に行くのさえ忘れてしまったほどだ。入学手続きだけはしたものの、最初の1カ月だけ通って、あとはもう行かなかった。
 その最大の原因は、浪人であるにもかかわらず勉強などしたくなかったからであり、花の東京で遊びほうけたせいである。高校時代も喫茶店に入り浸ったり、オールナイトの映画を観たりしていたが、こそこそと隠れてである。だが、この東京では誰一人としてそれをとがめる者などいない。
 考えてみれば、生まれて初めて僕はそのような自由な空間で息をしていたのである。映画だって堂々と白昼のロードショーを観ることができる。しかも鹿児島と違ってよりどりみどり。喫茶店のメニューも鹿児島では見たことのないものが並んでいる。なんだこのグラタンというのは(僕はグラタンなど東京に来るまで知らなかったし、シューマイですら初めて食べた)。田舎者まるだしだが、とにかく自由で楽しかった。誰からも何もいわれない!
 高校時代から特に念願していたことがあった。それは阿佐ヶ谷にある「ぽえむ」という喫茶店でコーヒーを飲むことだ。東京というより、新宿や阿佐ヶ谷に強く憧れていた。そこには、当時熱狂的ファンだった永嶋慎二の描く『フーテン』の舞台があったのだ。黄色い文字の喫茶店に入ると、そこには永嶋慎二の原画が飾ってあり、漫画の主人公のようにコーヒーを飲んでタバコを吸った。そして、新宿の映画館で夜を明かし、眠たい目で、朝焼けに燃える空を眺めて、ああ、これが『フーテン』の空だと感動した。
 それから、高校時代に買えなかった漫画を買いあさった。東京の本屋では、鹿児島で手に入らない漫画がいくらでも書棚に並んでいた。真崎守も宮谷一彦も売ってるし、山上たつひこの『光る風』を発見したときには躍り上がった。高校時代には欲しくても金がなくて買えなかったキング・クリムゾンピンク・フロイドのレコードを買い、思い切ってテープデッキも買った。金はあっという間に、それらの漫画やレコードや、映画のチケットに消えていき、いくらあっても足りなかった。
 高校時代に同じ下宿だった劣等生仲間も、やはり大学に落ちて上京していた。田辺も一緒だ。こいつらも予備校に入学はしたものの、ほとんどさぼりっぱなしで、金がなくなるとお互いのアパートに集まっては料理を作り、空腹をしのいだ。
 なにしろ漫画やレコードを買うために節約できる金は食費しかない。計画を立てて金を使うなどという性格ではないので、結局1カ月の半分はまともな食事にありつけず、1年間の浪人生活で、僕は体重が8キロ減った。
 料理と書いたが、実はまともな料理など誰もできなかった。だいいち材料を買う金も満足にないのだから、大量のモヤシを買って妙めるだけだ。それとご飯である。モヤシさえも買えなくなると、ご飯にマーガリンをまぜ、醤油をかけて食った。本来はバターが望ましいのだが、バターは高くて買えなかったのだ。先に仕送りが届いた者が食材を買って、次に誰かの仕送りが来るまでをしのぐというのが暗黙のルールになっていた。
 それでも金がなくなって、ついに僕はアルバイトを始めることにした。勉強をしようなどとはまったく考えない。好きな本や漫画を買い、レコードを買ったあと、いかに腹を満たすかだけが問題だった。始めたアルバイトは、FM放送の聴取率調査である。指定された家を訪ね歩き、何の番組を何時間聴いたかアンケート用紙に書き込んでもらうのだ。協力してくれた人には、会社から渡された粗品を差し上げることになっていた。
 しかし、空腹の身で何軒も訪ね歩くのはつらい。だいたい僕が担当した地域にはFMを聴いている人などほとんどいないのだ。アンケート用紙を回収しても空欄ばかりである。礼をいって粗品を渡すのがばかばかしくなってきて、粗品を先に渡し、ハンコだけもらってあとは自分で適当に書き込んだ。これだと2度行く手間が省ける。どうせほとんど聴いてる人などいないのだし、それだと番組製作会社の人もがっかりするだろうという配慮のもと、僕が気に入っている番組にチェックを入れておくことにしたのである。まったくいいかげんなバイトであった。すまぬ。
 高校時代からずっと考え続けていたことだが、最大の問題は自分自身で金が稼げないことだ。自分の生活費さえ稼げれば、もう誰かの命令に従わなくてすむはずだ。だが、それができない。自分には到底不可能なことだと思い続けていた。それが何より悔しくて残念だった。親から仕送ってもらった金でレコードを買ったり、映画を観たりするのは常に罪悪感がつきまとったし、親の金で生活する以上、最終的には親の意向に逆らうことはできない。その資格がない。
 だが、金がなくなって簡単なアルバイトをやってみると、あっけないほど簡単に現金を手にすることができた。もちろんそれは少額で、それだけで生活していくことはできないが、それでも自分で金を稼げたことには違いない。僕がやったFM聴取率の調査など、特にむずかしい仕事ではない。どんな人間だって体力さえあればできることだ。単に教師や親の眼がなかったから可能になったに過ぎない。その意味で、僕はささやかな自由を獲得した気持ちになった。
 アルバイトのおかげで、ようやく食料事情は一息ついたが、気がつくと次の入試まであと3カ月というところまで迫っていた。おお、月日のたつのは早いものだ。今回は模擬試験などまったく受けていないので、偏差値も何もわからない。合否の予想さえつかないのだが、全然勉強していないのだからうかるわけがないだろう、普通。腹は減ったが幸福な生活を棒にふりたくないので、僕はおそまきながら勉強することにした。
 といっても、入試まであと3カ月しかない。時すでに遅しと高校の教師ならいうところだろうが、逆に、たった3カ月だけ勉強すればいいのだと考えることもできる。さんざんさぼった末の3カ月など、高校3年間に比べれば、ほんのひとときである。
 それから僕は、およそ3年ぶりに本気で勉強した。1日数時間こたつのなかで眠り、起きあがってそのまま勉強するという生活である。むろん残り時間は豊富ではないから、すべての範囲をまんべんなくやることはできない。そこで、ここが試験に出たら絶対合格できるという「絶対合格範囲」を設定して、そこだけをとことんやることにした。つまりヤマをかけるのだ。ヤマがはずれたら即敗北という潔い態度である。
 とはいえ、受験というのはテストに出題される傾向がはっきり見えている。そのための参考書もあるし、過去数年間の試験問題を見れば、いよいよそれははっきりする。漠然と高校の履修範囲をあまねく勉強したってしょうがないのだ。
 何も僕はトップで合格しようとか、東大医学部を目指そうなどと思っているわけではないので、最強の学力で試験に臨む必要はないのだ。出た問題を、最下位で合格できる程度に解ければそれで満足なのである。最低の勉強しかせず、ぎりぎりで受かるのが最大効率ではないか。
 しかも、受ける大学はひとつではない。今回は10学部くらい受験するつもりだったので、自分がかけたヤマから出題する学部が絶対にひとつはあると踏んでいた。世間では、巨人の長島茂雄が現役を引退し、後楽園球場で涙の引退セレモニーを行った。あの、あまりにも有名な「巨人軍は永遠に不滅です!」というセリフを絶叫したあれだ。
 そして、甲子園では鹿児島実業が定岡投手を擁して破竹の勢いで勝ち進み、優勝候補の東海大相模を撃ち破った。僕らは驚喜しながらテレビの画面に向かって声援を送ったが、準決勝で防府商業に敗れ去った。鹿児島県勢が甲子園で準決勝まで勝ち進んだのを見たのは、これが初めてのことだった。
 入試に向かって、僕の最初で最後のスパートがかかった。夜も昼もなく、下宿仲間とも会わず、僕はひたすらこたつで参考書を読み、単語を暗記し、年号を頭の中に叩き込んでいった。落ちたら最後だ。今あるすべてを失う。そんなことは絶対にいやだった。不安感と微かな希望のあいだをさまよいながら、僕はひたすら勉強を続けた。


浪人時代の大森の下宿。吸っているタバコはハイライトだった。