人間の感覚の不思議さ──『妻を帽子とまちがえた男』

 タイトルに興味を覚えて、ずいぶん前に買った本をようやく読み終えた。『妻を帽子とまちがえた男』とは、脳の障害のせいで、妻を帽子とまちがえて、妻を被ろうとする男の話だが、それ以外にもさまざまな症例が紹介されている。
 最初この本を読み始めたときは、こういう症例が次々に紹介されるのがつらくて挫折した。しかし、あるときこの本の著者が映画『レナードの朝』の原作者であることを知って、もう一度読みはじめた。『レナードの朝』は30年間昏睡状態だった男レナードが、奇跡的に意識を回復するという実話を元にした話だが、その原作者がこのオリバー・サックスだったのだ。

 この本で紹介されている様々な奇妙な症例は、障害者の悲惨さを訴えたものではない。そのような症例を引き起こす脳の不思議さ、人間の感覚の多様さを描いたものであり、逆に健常者が持ち得ない障害者の豊穣な感性に多く触れている。

 タイトルの『帽子を妻とまちがえた男』は、認識能力に異常がある男性で、自分の写真を見ても、それが自分だとわからない。しかし、例えば有名なアインシュタインのような特徴のある顔の写真を見ると、それがアインシュタインだとわかるのだ。バラの花を見せると、彼はこういう。
「約三センチありますね。ぐるぐると丸く巻いている赤いもので、緑の綿状のものがついている」
 まるで生まれて初めてバラの花を見せられた人が、その形状を説明しているようだ。その説明の仕方は、冷静で分析的、どちらかというと聡明な人間のセリフだ。
 こうした分析の結果、男は、これは花の可能性が高いと医師に告げる。医師はそれを受けて、それじゃ匂いを嗅いでみて下さいというと、男はバラを鼻に近づけ、顔を輝かせてこういう。
「なんときれいな! 早咲きのバラだ。なんとすばらしい匂い!」
 つまり頭がおかしいというわけではぜんぜんないのだ。脳のどこかにちょっとした障害があるだけで、人間の感覚はこういうふうに変容してしまうということらしい。

 第六感というと、一般には「虫の知らせ」のような一種神秘的な感覚のことをいう。だが、生理学や心理学では「人間にそなわる隠れた感覚」(シェリントン)のことを六番目の感覚といい、「からだの可動部(筋肉、腱、関節)から伝えられる、連続的ではあるが意識されない感覚の流れ」のことだという。よくわからない定義だが、簡単に言えばこの感覚がないと、自分の足を自分のものと認識できないし、動かすこともできない。われわれは手足を無意識に動かしているが、実は手足から伝えられる位置情報や、緊張状態、動きなどを絶えずこの六番目の感覚が感知し、修正することで、動かすことができるのだ。
 この六番目の感覚は、1890年代にシェリントンによって発見され、「固有感覚」と名付けられた。固有感覚があって、われわれは初めて自分を自分だと感じることができる。この感覚を失った女性は「自分の身体がなくなったみたいです」と訴えている。こうなると自分の眼で見ない限り、自分の手や足がそこにあることさえわからなくなるという。もちろん目を閉じてしまうと、動かすことは不可能になるのだ。

 「追想」という項では、いつも音楽が頭の中に鳴り響く人の症例を紹介している。あるときから突然、頭の中に音楽が流れはじめ、それを止めることができないのだ。脳の右側頭葉に血栓か梗塞ができて、大脳皮質にある音楽の記憶が活発になったせいであるらしい。血栓が消滅すると音楽も消える。大脳皮質に刺激を与えると、リアルな幻影さえも出てくるそうだ。
 ロシアの作曲家ショスタコーヴィッチもこの症例だったのではないかといわれているらしい。ショスタコーヴィッチには弾丸のかけらが左側脳室にあった。
「破片がそこにあるから、頭を一方に傾けるとかならず音楽が聞こえる、と彼は言った。そのつどちがった旋律が頭のなかに満ちあふれ、それを作曲に使うのだそうである」(『ショスタコーヴィッチの秘密』デジュエ・ワン)
 レントゲン検査をした結果、ショスタコーヴィッチが頭を動かすと、破片が動いて側頭葉の音楽領域を圧迫することがわかったそうである。彼が頭を傾けるたびに交響曲が鳴り響いたのだろう。

 このような症例はいくつも紹介されているが、中でも感動的だったのが「詩人レベッカ」の項だ。19歳の少女レベッカは「『愚鈍』『痴呆的』『のろま』と人々の目にうつり、実際にもそう呼ばれてきた」ような少女だった。しかし、実は「思いもよらない不思議な力、すばらしい詩的な才能を持った知恵遅れだった」という。彼女は文字を読むこともできないし、服を自分一人で着ることもできず、知能指数は60以下だった。日常生活では簡単な説明や教えさえ理解できない。それなのに、語り聞かす物語や、詩の比喩や象徴を理解することはできるのだ。概念的な理解力はないのに、詩的な言葉だとよく理解するのだった。
 こういった症例が確認され、レベッカはこれまでの治療を中止し、特別な演劇グループにいれられた。彼女は演劇が好きだった。演劇をすると、彼女はよどみなくセリフを話せ、役を演じることができるようになるのだ。そしてのちにレベッカは役者として舞台に立つようになったという。

 この本に出てくる人々は、いわゆる障害者であり、それも脳に障害を持つ人々である。記憶力に問題があり、自分の身体さえ認識できず、周囲からは魯鈍と呼ばれているような人々だが、それでも彼らを一概に異常とは呼べないことがわかる。人間の感覚の複雑さや不思議さに驚かされる。