『聖なるインド、はるかなネパール』の装幀

 本日、3日がかりで本誌の発送作業を終え、引き続き堀田あきお&かよさんの新刊『アジアのディープな歩き方2 聖なるインド、はるかなネパール』(タイトルが長い)を制作再開する。本文というか中身の漫画部分は小川が担当して作業中なので、私は装幀をやっているところ。発送作業の前に、3点ほどつくって堀田さんにメールで送り、どれがいいかを選んでもらうのだが、みなさんにもその候補作をご覧にいれます。これです。どれがいいと思います?

 コンピューターで作業するようになってから、こういうプレゼンテーションが昔とは比較にならないほど楽になった。コンピューター以前の時代、こういうプレゼンテーションをどうやっていたかというと、ゴシックや明朝などのタイトル文字を手書きで書くか、あるいはフォントの本から必要な文字をコピーして貼り付けていたのだ。その場合、コピーは白黒なので、色を付けたいときは、それをなぞって色を塗っていた。とんでもなくめんどくさい作業だった。

 もちろん、一番右のように、イラストの線に色を付けて、それに影を付けるなんてデザインは発想さえできないが(小さくてよくわからないけどそういうデザインになっている)、もし思いついたとしても、それをプレゼンできる形にするのはものすごく大変な作業になったことだろう。今のブックデザインは、このような影が付いたり、文字が立体的にしたものが多くなっている。もちろんそれはコンピューターのおかげであり、こういう処理をするとデザインしたような気分になりやすい。

 自分がコンピューターを使ってデザインしているので、コンピューターでやったデザインはすぐにわかる。というか、おそらく現在のブックデザインでコンピューターを使用しないものはほとんどないだろうから、書店で目にするものはすべてコンピューターによるデザインなのだ。だが、デザイナーによっては、極力その臭いを消すようなデザインをする人もいれば、いかにもコンピューター臭いデザインを好むデザイナーもいる。

 私の目から見ると、コンピューターに頼ったデザインは飽きる。自戒を込めて書くのだが、コンピューターによる小手先のデザイン処理は、コンピューターが導入された当初こそ新鮮だったものの、今や映画のCGと同じ運命で、人々はすでにうんざりしているのだ。以前から言われていることだが、コンピューターは使わざるを得ないが、いかにしてその特性を生かしつつ、臭いを消すかが大切なのだ。もちろん、一番右のデザインが悪い例というのではない。このデザインは、前作との統一性をねらったデザインで、『アジアのディープな歩き方』の読者に最初に気がついて欲しいという希望がこめられている。

 私は、昔の方がよかったという懐古主義者ではないので、コンピューターを使う現在のデザイン環境の方が断然いいと思っている。要は使い方の問題だ。昔は、分厚くて広いコート紙に、直角を出すことに注意しながらトンボ(印刷する範囲を示す線)を引いていた。最初の頃はからす口で、次には0.1ミリのロットリングペンでやっていたが、こんなことはもうやりたくない。デザインとは全然関係ないうえに実にめんどくさいのだ。直角がちゃんと出ていないと、表紙やカバーが曲がってしまうことになるので、印刷屋から文句を言われたものだ(実際は印刷屋が勝手に修正してくれるんだが)。

 文字も写植を頼んで、それをカッターで切ってノリで貼り付けるのだ。写植を貼るのにスプレー糊を使っていたが、室内でやると体に悪いので、冬の寒い夜にベランダでしゅーしゅーやってましたっけ。今から考えると、実に原始的ですねえ。だから1冊デザインするにも非常に時間がかかったし、プレゼンも大変だった。時間をかけるほうがいいデザインになる可能性もあるから、こういう作業を一概に否定できないけれど、それじゃ昔のやり方に戻ることができるのかといわれれば、私は絶対にいやです。