現代日本の「貧困」と世界の「絶対貧困」

 締め切り時刻を1時間遅れて、さっき原稿をメールで送った。「週刊現代」に掲載される予定の『絶対貧困』(石井光太、光文社)の書評である。編集者の方、原稿が遅れて申し訳ありませんでした(反省)。

 やれやれと一息ついて、ふと見ると、イスの下にほっぱらかしになっていた「トリッパー」(2009年春号)が目にとまる。むむむ、特集が「脱貧困の想像力」となっている。石井光太さんの『絶対貧困』は、もちろん世界の絶望的なまでの貧困を描いた本だったが、こっちのほうも貧困問題を取り扱っていたのか。いまさらだが、ぺらぺらとめくってみる。

 そのなかに雨宮処凜の書評があり、そこには次のように書かれていた。
──「貧困」と「貧乏」は違う。この言葉は確か、「もやい」の湯浅誠氏から聞いたのだと思う。(中略)「貧困」は金銭的な貧困だけでなく、人間関係や「頼れる」家族もいない状況を指す。たとえ金がなくても、友達が沢山いて、その上貧乏人コミュニティなんかを形成していて、その中でなんとなく食料や物なんかを融通しながら楽しく生きていれば、それは「貧困」ではなく「貧乏」だ。

 この文を読んで、さっき書評を書いたばかりの『絶対貧困』とのあまりの落差にめまいを覚えるほどだ。石井光太さんが書いているのは、ただの貧困ではなく「絶対貧困」だ。「貧乏」と「貧困」が違うなんて論じるレベルの話ではないので当然なのだが、貧困も「絶対貧困」となると、「友達が沢山いて、その上貧乏人コミュニティなんかを形成していて、その中でなんとなく食料や物なんかを融通しながら」生きているにもかかわらず、楽しいとはとてもいえないほどの「貧困」なのだ。

 そもそも「楽しく生きてい」るんなら、生きていく上で最低限の金があるということだ。絶対貧困下ではその最低限の金さえないから、一人では生きていくこともできず、食べ物もお互いに融通せざるを得ないのである。雨宮処凜の書評は、『貧乏人の逆襲!』(松本哉筑摩書房)に関するものだが、この本では「自分たちでメディア(インターネットラジオや手書きの変なチラシなど)を作り、自分たちで遊べる空間を作」ることなどが紹介されているらしい。これだけ読むと、いったいこういう生活のどこが貧乏なんだか理解に苦しむところだが、まあ、あくまでこれは現代日本の「貧乏」だから、このほうがリアルなのだろう。

 おそらくインドなんかを旅行した経験がある読者は、苛酷な貧困を目の当たりにし、物乞いから金を無心されてとまどったり悩んだりしたことがあると思う。昔、ある読者から、インドで乞食に金を無心されて、あげるべきか、あげないほうがいいのか悩んでいるが、みんなどうしているんでしょう、というお便りをいただいたことがある。

 いちいち乞食に金をやっていてもきりがないという意見もあるが、石井光太さんはこの本『絶対貧困』のなかで、そんなことで悩む必要はなく、あげたらいいという。きりがないということはなく、いくばくかの金(インドだったら数ルピー程度だ)をやれば、少なくとも、その人は食事にありつくことができる。絶対貧困のなかでは、そのわずかな金が、彼の命をつなぐためにとても大きなことなのだ。

 この『絶対貧困』のなかで、実に興味深い観察が書かれている。インドの乞食にはヒエラルキーがあるということだ。石井さんの観察によれば、インドの乞食で最も稼ぎのいい乞食はハンセン病の乞食で、次に象皮病、四肢切断と続くという。こういった乞食たちは、大都会の中心地でも物乞いが許され、同情も多く受け、したがって稼ぎも多いのだそうだ。

 実は僕も昔、カルカッタで両足のない乞食をしばらく観察したことがある。いったいこういった人はどれぐらいの金を恵んでもらえるのか疑問だったからだ。すると、意外にも、かなりの金が集まることを知って驚いたことがある。「実は乞食は大金持ちで、路上で稼いで豪邸を建てている」という都市伝説のような話もあるが、さすがにそんな大金が転がり込むわけではないが、悲惨であればあるほど金が入るという笑えない逆説が存在するのだ。

 私は、自分のほうが悲惨な姿を見たことがあるぞといった自慢をしたいわけではない。しかし、「貧困」とか「貧乏」という言葉は状況によってこれほど違う意味になると言いたいだけである。『絶対貧困』は、つとめて軽い文体で書かれ、すっと読むことができる。できればみなさんにもぜひ読んでいただきたいが、文体は軽くても、読んだあとの気分が軽いままではないことだけは申し添える必要があるだろう。