アフリカに不要品を送ることは世界から評価されるのか?

 さっきテレビを見ていたら、デパートで古着や靴を引き取って、それをアフリカの子どもたちに送るのだといっていた。画面には、裸足でかけまわるアフリカの子どもたちの姿が映し出され、彼らは裸足でいなくてはならないので、足から寄生虫が入り込んで病気にかかるのだと訴える。デパートに古着や不要になった靴を持ち込んだ人は、アフリカの子どもたちのためになれば嬉しいといい、テレビはこの運動は世界から高く評価されているとコメントする。

 世界から高く評価されているという「世界」とは、いったいどの人を指すのだろうか。「世界から信用されない」とか「世界から孤立する」とか「世界の笑い物」などとコメントされるとき、その「世界」とは、どこの誰のことなのか具体的に示されることはまずないが、いったい世界のどこの誰がそういう評価をしているのだろう。

 自分たちがいらなくなった服や靴を、アフリカの子どもたちのプレゼントするということが、それほどえらいことなのか。評価されるべきことなのか、私には理解しがたい。そもそもプレゼントした人は、アフリカのどこで服が足りず、なぜ靴がなく、自分のプレゼントがどこに行くのか、おそらく知ることはないだろうし、もしかしたら関心すらないかもしれない。テレビでは、こういう報道をしておきながら、漠然とアフリカとしかいわないのだ。いったいアフリカのどこなんだ? なぜ具体的にいわないのだ。これではまるでアフリカ人はみんな靴がないほど貧しく、服も買えないほど餓えているようじゃないか。ワールドカップを開催するような国もあれば、ダイヤモンドがざくざく採掘されるような国もあるのに。

 アフリカの貧しい国に、不要になった服や靴を、みんなの手に届くようにどんどん送るとしよう。もちろん、それを無料で配布された人は嬉しいかもしれない。そうすると、それまで服をつくり、その服を仕入れて売っていた洋服屋さんはどうなるだろうか。もちろん売れなくなる。特に、安い衣料品を、貧乏人に向けて細々と売っているような商店はひとたまりもない。店はつぶれる。そして、そういう地域から洋服屋さんがなくなる。地元で服もつくられなくなる。そうやって基幹産業である繊維産業が衰退していく。そうなる頃には、善意の服や靴は破れ、替えがきかなくなり、彼らは再び裸足に戻る。

 それはいけない。また古靴をアフリカへ送ろう。着古した服をアフリカの子どもたちに届けなくちゃ。古い自転車を修理してアフリカへ送ると、アフリカの自転車産業が消滅し、自転車が壊れたら直せないまま捨てられる。それぐらいだったら、すぐ壊れても安く手に入る中国製が店に並んでいる方がまだましだ。本当は自転車なんかに乗らなくたって困らない生活が存在することを、私たちは知らないだけなのだ。なぜ私たちは物を恵むという発想しかわかないのだろう。アフリカ人は乞食じゃないのだ。