『孤独な鳥はやさしくうたう』の制作が終了
今日これから印刷屋さんがやってきて、田中真知さんの新刊『孤独な鳥はやさしくうたう』のデータを引き渡す。発売は6月25日。真知さんのひさびさの新刊ですので、みなさまよろしくお願いします。
さっきまでその作業をやっていたのだが、エッセイのような単行本の場合は、図版制作とかはあまりないので、編集作業は、目次の構成案を作ることから始まって、本文の赤入れが主作業になる。うちの場合はブックデザインまで僕がやるわけだが。
本文の赤入れというのはどういう作業かというと、最も大事なのは誤字脱字を発見し、書かれたデータを検証することだが、他にも、言い回しや「てにおは」といった助詞を、こう変えたほうがいいんじゃないですかと提案したり、使用される語句を統一することなどがある。
使用される語句を統一するのは、編集の最も基本的な作業のひとつで、たとえば、ある箇所で「いまいましい」と書いてある場合、他の箇所も「忌々しい」と漢字を使わないで、原則としてすべてひらがな表記に統一するといったことだ。難しい作業ではないが、読んでいると、この言葉は前にひらがなだった気がするけど、今度は漢字になっている気がするなあ、うーん、どこだどこだ、といった具合に、もう一度それを探し出さなくちゃならないのだ。これが結構面倒な作業だった。
だが、近頃は、コンピューターのソフトに本文検索機能が付いているので、言葉を探し出すのがぐっと楽になってきた。「忌々しい」を検索すれば、その箇所がすぐに判明する。それで「いまいましい」に置換すればいいのだ。
このように簡単にいかない場合もある。たとえば「もつ」という言葉を漢字の「持つ」にしたい場合は、活用形で異なってくる。「もって」「もとう」「もてば」「もたず」などと活用ごとに検索しないと探し当てることはできない。こういう言葉がいくつもあると、語句統一もかなりの手間になることは想像が付くことと思う。
しかし、こういう面倒な作業の最中に、果たして一般的な読者が、細かく語句統一にこだわっているのか? という疑問もよぎる。統一されていなくたって、まちがっているわけではないからだ。最初に「夢のなかで」と書き、50ページあとで「家の中で」と書いたからといって、疑問に思う方はほとんどいないだろう。だから、ときどき、どうでもいいのではないかと思うことも正直言ってあるのだが、それでもやはりできるかぎりやっている。
こういう語句統一は、見逃したとしてもそれほどの問題はない。問題なのは、ガイドブックの地名などの統一表記である。これを見逃すと非常にみっともないし、最悪の場合は読者が誤解する恐れもある。たとえばビルマの「イラワジ川」と「エーヤワーディ川」が統一されてないと、別の2本の川だと考える方が多いだろう。だからガイドブックの語句統一はエッセイよりも数段大変なのである。
今回の田中真知さんの原稿を読んでいたとき、編集部の小川が、原稿のある箇所で、「この表現はなんかおかしい」と言い出した。次のような文章である。
「それまで裸同然だったやつが真っ白なスーツに袖を通し、」
いったい何がおかしいのかさっぱりわからない。要するにスーツを着たということじゃないのか? 何がおかしいのだと聞いても、はっきり説明できないけど、何かおかしい気がするのだという。スーツに袖を通すという表現がおかしいとは思えないが、相田さんが念のために調べてみて、「あっ」と声を上げた。「袖を通す」とは、「新しい服を着る」ことなのだ。それは「袖のしつけ糸を切って腕を通す」ことであり、「袖には魂が宿っており、初めて着る服に魂を込める」という意味でもあるというんである。うーん、この言葉にはそんな深い意味があったのか。
つまり、「袖を通す」と書く場合は、ヨレヨレの着古したスーツではダメなのである。「男は着古したスーツに袖を通して街へさまよい出た」なんて書いてあったらアウト。では、この場合のスーツは新品なのかどうなのか。前の文章にはそういうことは書いてない。小川は多分そこらへんに漠然とした違和感を覚えたのだろう。しかし、「真っ白なスーツ」なんだからきっと新しいのだろうと解釈して、この文章はそのままということになったのであった。
もう一例、紹介する。次のような文章に、小川が「なんか変だ」と言い出した。
「乗っていたバスが故障して、修理のために、たまたま最寄りの町で降ろされた。」
なにがおかしいんだ? 最寄りの町に降ろされたわけだから、そこに「たまたま」降ろされたというのは変だというのだ。たまたま降ろされたのではなく、最寄りだから降ろされたのだから。なるほどそういえばそうだ。「乗っていたバスがたまたま故障して、最寄りの町で降ろされた」というのならつじつまが合う。というわけで、「たまたま」は「故障」の前に移動という赤文字が入ったわけである(最終的には、この「たまたま」は削除された)。
こういう表記を見逃さないように丹念に読み込むという作業が編集には必要なのである。これは書いている本人にはわかりづらいことで、第三者の人間が読まないとなかなか発見できない。そこにまあ編集者の役割が存在するわけだが、これは僕が最も苦手とする仕事でもある。
というわけで、真知さんの新刊は、大きなアクシデントがない限り6月25日に発売になる。真知さんの原稿は、校正がおろそかになるほど読んでいておもしろい(校正のつもりがつい読みふけってしまうのだ)。しんみりしたり、笑い転げたり、感心したりの連続だった。読者にもぜひぜひお読みいただきたい一冊である。どうぞよろしくお願いします。