憧れのシベリア鉄道


 もうすぐ田中真知さんの新刊『孤独な鳥はやさしくうたう』が出るが(6月25日発売)、その1カ月後には自分の本『シベリア鉄道』(7月25日発売予定)を出すので、今はその制作にかかりっきりである。今度の本は、およそ半分がカラーという(旅行人としては)超豪華な本になる。


 それで、シベリア鉄道がなぜ日本人の心をくすぐるのか、なぜシベリア鉄道に憧れるのかといったことをあらためて調べている。もちろん世界で最大級の鉄道であることが最も魅力なのだとは思うが、戦後の日本人がシベリア鉄道に心騒ぐようになったのは、世界最大級の路線とはあまり関係ないような気がしている。


 日本人の海外旅行が自由化されたのは1964年だ。それまでは海外旅行に出ようとしても、普通の人は不可能だったが、自由化されると海外旅行は現実味を帯びてくる。とはいえ、それでも普通の人には高すぎて海外旅行などは高嶺の花である。それでも外国に行きたい、金はないけどなんとか海外に出てみたいという人はいた。そういう人がこのシベリア鉄道でヨーロッパへ渡ったのだ。世界最大級の鉄道路線に魅了された鉄道ファンとか、シベリアの風景を楽しむというような優雅な旅ではない。そういう人種が出てくるのはそのずっと後のことだ。


 前川健一さんが1960年代のガイドブックの資料を送ってくれた。それを見てみると、1963年10月に発行された『世界旅行 あなたの番』(蜷川譲/二見書房)では、「船より安いシベリア鉄道」という見出しでシベリア鉄道を使ったヨーロッパ行きの旅行を紹介している。横浜からナホトカまで船で行き、ナホトカからハバロフスクまでシベリア鉄道ハバロフスクからモスクワまで空路で、そこからウィーンまで再び鉄道に乗るという旅程だ。これで9万1908円。フィンランドヘルシンキ行きはもう少し安くて、8万1864円である。


 これを現在の価値に直すといくらぐらいだろうか。前川さんによれば、1965年当時、工員の日給が、かなり大きな企業で500円。若いサラリーマンの給料が1万5000円程度。当時の給料1万5000円が現在22万5000円の給料とすると15倍になる。という計算で、ウィーン行きの9万1908円を15倍すると137万8620円。ヘルシンキ行きは、122万7960円だ。安いといっても、恐ろしく高かったことがわかる。


 ちなみに、高いといわれた飛行機や船旅はどうだったかというと、前川さんの調べでは次のようになる。

・飛行機(エコノミー往復)46万3550円 15倍すると、695万3250円
・船(往復)26日(片道)2等の下で30万7800円 15倍すると、461万7000円
  (『ヨーロッパの旅』辻静雄、保育社カラーブックス、1965年)
 こちらは、とてもじゃないが、普通の人には手が出ない金額だ。


 しかし、それでも若者は「海外雄飛」を夢見、そして一部の人は実行した。たとえば、あの安藤忠雄は1965年、23歳の時にシベリア鉄道でモスクワまで行き、その後も各地を船で旅した。野田知佑は1965年、27歳の時にアルバイトで貯めた金を持ってシベリア鉄道経由でヨーロッパへ渡った。永倉万治も1968年、20歳の時にナホトカへ渡っている。


 こういった人々は、シベリア鉄道に乗りたかったわけではない。乗らざるを得なかったのだ。上記のガイドブックの旅程をよく見ると、ハバロフスクからモスクワまでは空路になっているが、これも全線を鉄道で行くよりも安いからである。したがって、この時代にシベリア鉄道でヨーロッパへ渡った人々のほとんどは、モスクワまで鉄道で行っていない。当時の日本人旅行者にとってシベリア鉄道とは、現実的にはナホトカ・ハバロフスク間のことだったのだ。


 それを小説にしたのが五木寛之の『青年は荒野を目指す』である。主人公は横浜〜ナホトカ〜ハバロフスク〜モスクワ〜ヘルシンキというコースをたどって旅をする。今読むと一種荒唐無稽な物語だが、当時の若者はこれに影響を受けた、と、よくいわれている。本当にこんな小説で影響を受けるものだろうかと思ってネットで検索したら、けっこうこれを読んでヨーロッパへ行ったという方の話が出てくるのに驚いた。今でもこれを「名作」だという人がいるぐらいだ。


 まあ、考えてみれば、ちょっと前にも『猿岩石日記』が多くの若者に影響を与えたわけだから、質の高低はあまり関係ないのかもしれない。それよりも熱気が大切だったんだろうと思う。『猿岩石日記』が出た1995年は、円高で最も海外に出やすい時代だった。その30年前とは比較にならないほどだが、それでも1960年代の『猿岩石日記』が存在したということに思わず微笑む。