世界平和の祈り方を工夫しよう

 この前テレビを見ていたら、有名な広告ディレクターという人が出てきて、インタビューに答えてこういうことをいった。正確ではないがだいたいこんなことだった。
「おばちゃんの視線というのはおもしろいね。自分の背丈の高さでモノを見ることがいいんだ」
 へえー、そんなもんかねと思う。この人のつくる広告は非常に評判になっていて、その業界では知らない人はいないほど有能な人なんだそうだが、このセリフは僕にはまったくおもしろくない。そうかもしれないし、そうではないかもしれない、という程度だ。

 こういうふうに、業界の達人にインタビューして、おもしろい言葉を引き出すのは難しいことであることは十分に知っている。何をおもしろいと思うかはインタビュアーにもよって異なるだろうし、例えば才能のある芸術家が必ずしも雄弁なわけではないので、その言葉だけを引き合いに出すのはフェアではない。

 そのことを前提にして書くと、陶芸家は「土に聞ききながら形を探り出すんだ」などとよくいうし、建築家は「家族のコミュニケーションがとれる家を造りたい」などとよくいう。

 これらの言葉を否定はしないが、こういう言葉を引き出すインタビュアーのセンスをまず疑うのと、それから、こういうどうでもいいことならいわないほうがその陶芸家なり建築家なりのセンスも疑われないんじゃないかとも思う。「土に聞く」という、いかにも陶芸家風の言葉は、その陶芸家にとっては真実であろうとは思うのだが、最初の一人がいったときはかっこよくても、何人もの陶芸家が言い出すと「またかよ」と思うし、「家族のコミュニケーションがとれる」のは当然で、むしろ家族のコミュニケーションを阻害する家を造るんじゃないよと言いたくなる。

 こういうことを思うのは、本を書くときに「締め」の言葉に悩んだことがあるからだ。旅行記でもエッセイでも、最後に締めて、終わりらしい終わり方をしないと文章全体がダメになる。で、そういうときに結論めいたことを書こうとすると、「陶芸とは土に聞きながら形を探り当てることだった」などと、大仰な訳のわからないことを書いたり、あるいは世界平和を祈っちゃったりしてしまうのである。これが実にまずい。上のように答えた人々も、いろいろ聞かれているうちに、どこかで聞いたことがある、いかにもそれふうなことをサービスでいったのかもしれないが(そういうことはあるんだ、これが)、それがばーんと前面に出たりすると恥ずかしいことこのうえない。

 自戒を込めて書くのであるが、これから旅行記をお書きになる方にもアドバイスしておくと、最後に世界平和を祈るのはかまわないが、祈り方を工夫しよう。僕やあなたの個人的な旅行が世界の平和に寄与しているわけではないし、また、世界が平和である方がいいことは誰でも同じである。そんなことは書いてもしょうがないのだ。わかっていても書きたくなる瞬間はあるけどね。ほんと、世界が平和でないと、旅行できないからねえ。いやいや、これがいけないんだよな。