アジアハンター小林真樹『日本の中のインド亜大陸食紀行』(阿佐ヶ谷書院)を読む

  希有な本が小さな出版社から刊行された。日本でインド亜大陸の食文化を追求しようという本だ。それだけ書くと、日本にあるインドレストランのガイドブックかと思ってしまうが、この本に書かれているのは、一般的なレストランに加え、普通の日本人ではまず発見できない(看板さえない)レストランであったり、モスクやグルドアラ(シク寺院)の礼拝後に供される食事だったり、日本に住むインド人などの家庭で招かれて食べる食事だったりする。

 この本はいわゆる一般的なレストランガイドではなく、いろいろな読み方ができる珍しい本だ。一つは、最初に書いたような日本にあるインドレストランの案内書として。これほど多くの、多種多様な南アジア(インド、ネパール、パキスタンバングラデシュスリランカなどのインド亜大陸地域)料理を、日本各地で味わうことができるということに驚かされる。南アジアの食で使用される食材、スパイス、器具についても、図鑑のようなコラムが設けられ、写真付きで説明されている。

 二つ目は、日本にある南インド系レストランの実態だ。これらのレストランがいかに日本に広がり、そしてどのように経営されているのか、レストランのオーナーのインタビューを交えて取材されている。老舗といわれるレストランがいかにしてここまでやってこられたか簡単な歴史もあきらかにされ、どのような人々がレストランに集まってくるかなども描かれている。極めつきは北関東にあるナーン製造工場の話だが、それはぜひ本書をお読みいただきたい。

 三つ目は、食文化から入っていく日本の南アジア系移住者の世界だ。著者の小林さんは、アジアハンターという南アジアの食器・雑貨などを輸入販売する会社が本業だ。その営業で日本全国の南アジア系レストランをまわって、食器その他の備品を販売している。小林さんは仕事で知り合った南アジア系の人々の伝手で販路を広げていくので、彼らとの付き合いは一般の日本人とは比較にならないほど濃密だ。日本にいながら、明日はネパール人、明後日はパキスタン人、その次の日はインド人のレストランと、仕事のある日は常にそういう世界をまわり歩いている。そこから見えてくるのは、日本に移住してきた南アジア系の人々の生活そのものだ。

 例えば、ネパール人が日本にやってきてレストランを開業しようとすると、ネパール人の不動産業者がレストラン物件を斡旋してくれ、ネパール人の改装業者がレストランに仕立ててくれるので、今や日本語が一言も話せなくてもレストランの開業が可能になっているという。

 小林さん自身が南アジアの食事が偏執的ともいえるほど好きなので(小林さん、すみません)、仕事じゃなくても、南アジア系の人がいそうなところをつねに訪れている。サッカーにはぜんぜん興味がないのに南アジア人のサッカー大会まで見にいくぐらいだ。

 去年小林さんがインドに行き、その様子をFacebookにアップしていたが、あるとき「さすがにインド料理に食傷気味なので、パキスタン料理を食べに行く」という。インド料理に食傷してパキスタン料理を食べに行く人が世界のどこにいる? 「あれはウソですよ」と彼をよく知る人がいったが、あとでそれはウソで「たまには言ってみたかった」ということだったらしい。

 そういう人でなければ、こんな本を書くことはとてもできなかっただろうし、阿佐ヶ谷書院のような出版社でなければ、本になることもなかったかもしれない(もちろんうちでも本にしますけど)。日本にある美味しいインドレストランガイドなら他の出版社でも出しただろうが、これはそうじゃないし、そもそもうまいかまずいかもあまり書かれていない。というか、往々にして説明もなく料理名が書かれているので、僕もそれがなんの料理かはネットで調べないとわからないほどだ。

 こんな希有な、そして貴重な本は、南アジアの物品を日本在住の南アジア人に売り歩くという商売をやっていて、自分も南アジアの食事や文化が好きで、それに加えて文章も書けるという人間でなければできないし、それを書けと勧め、儲からなくても本にするという出版社がなければできない本だ。

 2200円という価格は、もしかしたら1冊の本としては高いと感じる方がいるかもしれない。だが、そうではないのだ。これだけは読者に理解していただきたい。2200円で出しても、実は著者も出版社もほとんど儲からないのだ。これがベストセラーになって数万部売れれば話は別だ。めっちゃ儲かる。だが、こんなニッチな本が数万部売れるとは著者も出版社もまったく考えていない(と思う)。数千部売れれば、ばんざ~い! とよろこぶ規模なのだ。業界的な常識として「万の位」の刷り部数であるとは考えられない。だから、この2200円は本当に本当に安い。著者と出版社の大サービス特別価格なのだ。そして、小林さんが書かない限り二度とこのような本が出ることはないだろう。なぜなら誰もこんな本は書けないからだ。

 それにしても、すばらしい本であるではあるけれど、こんな渋い本がいったい何部売れるのか、僕は自分の本のように気がかりだったが、なんと昨日SNSで阿佐ヶ谷書院から重版報告があった。すばらしい! みなさん、ありがとう。もっと買って下さい! この本がたくさん売れ、小林さんの健康が損なわれないことを祈るばかりである(いくらなんでも食べ過ぎでしょ!)。

日本の中のインド亜大陸食紀行

日本の中のインド亜大陸食紀行