濱素紀さんのこと(2)車のデザイン世界へ

 濱氏はそこからどうやって車のデザインへ進んでいったのか。
濱「父が日本クラシックカークラブの会長をやってましてね。そのメンバーの一人がトヨタの中古車を売っていた。クラウンが発売されたばかりのころです。当時はそのほとんどがタクシーですよ。事故で車が壊れると、ボディを捨ててシャシーを残しておくんです。それを使ってボディをスポーツカーに仕立ててくれないかという注文が父のところに来たんです。それを僕が引き受けてカスタムスポーツという車を作りました」
 昭和35年(1960年)にその車は完成した。それから新車のシャシーを使ってさらに4、5台のカスタムスポーツを制作。クラウンの新車が77万円だった時代に、オプション付きで200万円で販売したという。この頃の物価といえば、大卒初任給が1万3000円ほどだったというから、現在を20万円とすると3000万円になる。まさしくスーパーカーだったわけだ(現在その車はトヨタの自動車博物館に収蔵されているそうだ)。


イギリスの「オートカー」誌に掲載され、高く評価された。60年代初期の車とは思えないほど洗練されている。

 昭和30年代終わりから40年代半ばにかけて、日本でもスピードレースやラリーが流行するようになる。そこで濱氏にレース用のシートの注文がやってくる。
濱「私は椅子にも興味があって、データやアイディアもいろいろあったんです。FRPで作ったら評判がよくてたくさん売れましたよ」

 そしていよいよレーシングカーのボディの注文がやってくる。それはホンダS800(通称エスハチ)という車に載せるボディだった。FRPで作った軽いボディ(110kg)は、ノーマル鉄板ボディのS800の半分の軽さとなり、昭和44年(1969年)富士スピードウェイで開催されたレースでワンツーフィニッシュを飾るほどに活躍。濱氏の車は一躍注目を浴びた。

 この車は「コニーリオ」と命名される。イタリア語でウサギという意味だそうだ。ネットで検索すると、この車の写真が記事が数多くヒットする。今や伝説の名車となっている(ホンダ博物館に収蔵されているそうだ)。

〈続く〉