旅先での「選択」の先にある運命

 12年も前に、新潮社の『波』という雑誌に書いた書評をブログに掲載する。『「バンコクヒルトン」という地獄 ― 女囚サンドラの告白』(サンドラ・グレゴリー著/川島めぐみ訳/新潮社)という本だ。
 なんでいまさらと思うが、大掃除していてこの『波』が出てきたのだが、いつまでも取っておくわけにもいかないし、捨ててしまったらこの書評も消滅するので(それはそれでいいんだけど)、ブログに掲載しておこうと思ったのだ。
 というのも、この著者サンドラさんは、僕とまったく同じ時期にタイにいた旅行者で、すぐ隣りで笑っていたイギリス人旅行者だったことが読んでみてわかったのだ。古い本なので古本しかないかもしれないが、よかったらまずこの書評をお読み下さい。


旅先での「選択」の先にある運命
サンドラ・グレコリー『「バンコクヒルトン」という地獄』


 もしあなたが外国に旅に出て、所持金をすべて失ったうえに病気にかかったとしたら、どうするだろう。日本の肉親に電話をして送金してもらうか、あるいは大使館に駆け込んで金を借りるかのどちらかだろう(貸してくれる保証はないが)。麻薬を密輸して金を稼いで帰国すると答える人はまずいないと思うが、この第三の選択をしたイギリス人女性がいた。
 彼女サンドラ・グレゴリーは単なる旅行者に過ぎなかった。夕イがあまりにも気に入ったために、予定より長く滞在してしまい、所持金を使い果たしてしまう。そのうえデング熱にかかって弱気になり、帰国の費用をまかなうためにヘロインの密輸を引き受けてしまうのだ。しかし、タイの空港でヘロインを発見されて逮捕され、その結果25年の実刑判決を受ける。本書はその逮捕から釈放までの一部始終を描いた物語である。
 これだけ聞くと、彼女に対して同情する人はあまりいないだろう。バカなことをやったバカな旅行者の話だ。しょうがない。僕も同情はしないし、彼女自身、当然の報いだったと書いている。1キロにも満たないヘロインを持ち出そうとしたぐらいで25年はないだろうと思う方もいるかもしれない。僕もそう思うし、彼女もそう思うと書いている。しかし、タイの法律ではそうなっているのだからしょうがない。死刑にならなかったのが幸運だったぐらいだ。
 タイの刑務所で4年過ごしたあと、彼女はイギリスの刑務所に移されて、さらに4年を過ごすのだが、両親の懸命な減刑運動によって釈放される。この8年の刑務所生活を描くことに本書の大半は費やされているが、彼女に同情するかどうかは別にして、この刑務所生活の様子はすさまじい。映画『ミッドナイト・エクスプレス』そのものだ。
 と書くと、やっぱりタイの刑務所はつらいだろうなと想像する人もいるかもしれないが、これがそうともいえない。タイの刑務所もつらいが、イギリスのほうがもっとつらかったと彼女は書いているのである。イギリスで最も恐れられている刑務所はダラム重警備刑務所というところだそうだが、終身刑や死刑といった重罪の囚人ばかり収監されているこの刑務所にサンドラは入れられてしまう。たった1キロ未満のヘロイン密輸でなんでこんな目に遭わなくちゃいけないの? とサンドラは嘆くのだが、なんでも イギリスでは犯した罪の内容にかかわらず刑の重さで収容する場所も決められてしまうらしい。本書を読む限りタイの刑務所だって十分にひどいが、イギリスの刑務所もちょっとどうかと思う。まるで映画みたいだなと感じるのは、その描写がかなりスリリングであることと、まさか自分はそんなところに入る可能性はないと信じているからだ。いやいや、一歩間違えればその可能性だってなくはないでしょうと新潮社の編集者は原稿を依頼するときにアドバイスしてくれたが、あのね、冗談じやありませんよ(とはいえ、バンコクの刑務所には何人かの日本人が麻薬の密輸で捕まって収監されているそうである)。
 しかし、偶然とは恐ろしいもので、じつはサンドラがタイの島でデング熱にかかってうなっていたのと同じ頃、ほぼ同じ場所で、僕も同じ病気にかかってうなっていた。当時その島(※コパンガン)デング熱が流行していたので、そういった旅行者は多かったのである。そして、彼女が病床からなんとか起きあがってバンコクまでたどりつき、チェックインした同じ安宿に、じつは僕も泊まっていた。僕も彼女もお互いに知り合うことはなかったのに、まさかこんな物語で再会することになろうとは。
 しかし、当然のことながらその後の運命は僕とは全然違う。彼女は病気で帰国したかったのに金がなかった。僕は帰国したくもなく、金も持っていた。その結果、彼女は逮捕されてタイとイギリスの刑務所で苛酷な8年を過ごす。そして本書を書いて日本語訳される。僕のほうは数冊の平凡な旅行記を書き、こいつはタイを旅行したことがあるようだから、この本の書評をやらせてみるかと新潮社の編集者の目に留まってこの原稿を書いている。その後の人生ははっきりとわかれてしまったが、行き着くところはたいして変わらないといえば変わらないのかもしれない。もちろん僕は、いささかのためらいもなく、こんな本を書けない自分の人生を選択するけれど。

「バンコク・ヒルトン」という地獄―女囚サンドラの告白

「バンコク・ヒルトン」という地獄―女囚サンドラの告白

  • 作者: サンドラグレゴリー,マイケルターネイ,Sandra Gregory,Michael Tierney,川島めぐみ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/01
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る