石井光太『遺体』


 ようやく石井光太さんの『遺体』を読み終えた。読むのに苦労するような文体でもなく、ものすごく分厚い本というわけでもないのに、読み終えるのに2週間以上かかったのは、この本が東日本大震災ルポルタージュだからだ。タイトルの『遺体』とは、もちろん津波で亡くなった方々の遺体のことで、震災地で遺体を探し、身元を確認し、遺族と向き合った地元の人々の話で綴られている。

 まず、この本の装幀から見てみよう。菊池信義さんのデザインだ。黒一色、文字だけの非常にシンプルなデザインは、死者に対する喪を表したものだと思うが、このようなシンプルなデザインはシンプルであるほど難しく、成功すれば非常に重厚なものになる。それを本の趣旨と重ね合わせているのは、さすがに菊池さんだと思う。グレーの帯が掛かった状態で見ると、そのことがいっそうわかる。

 震災のときに遺体安置所に遺体が運び込まれていることは容易に想像が付くが、実際にはそういう光景が報道されることはない。遺体が並ぶ光景など報道できないし、テレビで見せるべきものでもない。だから、マスコミが取り上げることはほとんどないが、その遺体安置所を中心に働き、活動した人々を取材したのが本書である。

 石井さんの文章は読みやすく、一度読めばすらすらと頭に入ってくるいい文章だが、そうであるだけになおさら遺体安置所の光景が頭に浮かび、なかなか先に読み進むことができない。つらいのだ。まるで自分が遺体安置所にぽつんと立たされているような感覚さえ覚える。安置所の凍えるような寒さ、遺体からの異臭、遺族の泣き声が聞こえてくるようだ。

 現地で津波を免れた人々は、交通を遮断されて津波にさらわれた町を見ることもできず、停電でテレビを見ることもできない。津波があったことを確実に知るのが震災から3日後だったという事実も明らかにされている(私の友人の話では5日後に知った人もいたそうだ)。

 マスコミでは震災にあった人々の再生の物語ばかりを放送する。それは仕方のないことなのだが、死んでいった人々はそこから置き忘れられる。ガレキの処理は報道されても、死んでいった人々がどのように扱われたのかもほとんど報道されない。そのなかで、遺体をとりまく悲しみを、そのままの悲しみとして取材したこの本は貴重な記録だといえる。

 テーマは地味だし、読むのもつらい本だが、それでも書店で並んでいる本書の奥付を見ると3刷になっていた。この本に力がある証拠だろう。私が下手にお勧めするより、こういう本がこれだけ売れたのだという事実を示すだけで十分かもしれない。