吉田拓郎は青春の反抗者だったのか

 最近、友人のサイトで吉田拓郎のファンと知り合った。その人が、昔の吉田拓郎を聴きたがっていたので、そういえば昔ラジオで吉田拓郎が歌っていたのを録音したことがあるのを思い出し、それを探してみましょうと約束した。

 本誌の制作が終わり、重い腰を上げて押し入れのテープ入れをひっくり返してみると、意外なことにぞろぞろとテープが出てきた。僕の記憶では、「オールナイト・ニッポン」で吉田拓郎がギター一本でとちりながら歌った録音があるだけだったが、他にもラジオで放送されたコンサートとか、四角佳子との離婚話とかがいろいろ出てきて、われながら熱心に吉田拓郎を聴いていたものだと驚いた。

 それで昨夜(10/23)吉田拓郎かぐや姫が31年ぶりにつま恋でコンサートをやったドキュメント番組を見た。吉田拓郎も60になり、当然だが老けた。それでも何時間も歌い続けられるほどちゃんと声が出るのはさすがプロだと感心した。今でも全国ツアーをやっているらしいから、それも当然といえば当然なんだろうが。

 さて、この番組では、31年前の1回目のつま恋コンサート(1975年)や、フォークソングが登場してきた時代などを振り返りながら今回のコンサートも紹介するという構成になっていたのだが、途中で作家の重松清が出てきてコメントした。彼は43歳で中学・高校の頃吉田拓郎にのめり込んだそうだ(と番組のナレーションがいった)。彼は「吉田拓郎は青春の反抗というか抵抗の手本だった」という。

 吉田拓郎が「青春の反抗の手本」だったという記憶は僕には全然ない。重松のコメントを受けて、吉田拓郎自身が「それはない」とあっさり否定したのが笑えるが、吉田拓郎は「青春の抵抗」どころか、当時は「フォークの貴公子」と呼ばれ、商業主義への迎合者とバカにされ、裏切り者とののしられ(それが妥当だったかどうかは別として)、「帰れコール」を浴びてステージに立つこともできないことがしばしばだった。

 この番組では、1971年の中津川フォーク・ジャンボリーで吉田拓郎が「人間なんて」を熱唱して聴衆の注目を浴びたといっていたが、僕はそのコンサートに行ったわけではないけれど、吉田拓郎がそこで「帰れコール」を浴びたことはよく知られている、と記憶しているのだが、僕の記憶でものを言っても全然説得力がないので、そのことを書いた本をあたってみよう。フォーク歌手なぎら健壱が書いた『日本フォーク私的大全』(筑摩書房/1995)である。

──そして、「帰れ」コールといえば、例の71年『中津川フォーク・ジャンボリー』である。(中略)吉田拓郎も二日目メインステージでは「帰れ」コールを浴びた。(中略)拓郎はそれ以来臆したのか、とうとう殺気立っていたメインステージには出てこなかった。

 というわけで、吉田拓郎はメインステージではろくに歌っていない。では、どこで「人間なんて」を熱唱したのかというと、サブステージというのがあって、そこで歌ったのだ。拓郎のファンだけがいる場所で、そこでは「帰れコール」がなかった。

 なぎら健壱によれば、そのサブステージでの盛り上がりは確かにすごかったけれど、メインステージには1万人以上の観客がいるものの、サブステージは数百人しかいない。その中での盛り上がりに過ぎなかった。『中津川フォーク・ジャンボリー』が拓郎の「人間なんて」で盛り上がったという「神格化」は適切ではないといっている。僕もその通りだと思う。

 なぎらは、のちに行われた吉田拓郎のコンサートで、今度は逆に吉田拓郎以外の歌手に向けておこった「帰れコール」に対して、この「帰れ」コールは「思想のひとつも存在しなかった」と批判している。果たして吉田拓郎に向けられた「帰れコール」が思想的だったのかはなはだ疑問だが、とにかく吉田拓郎といえば「帰れコール」のチャンピオンだった。

 もちろんそれは吉田拓郎がメジャー路線をまっしぐらに進んだからである。URCやエレックといったマイナー・レコード会社から飛び出してCBSソニーから「結婚しようよ」や「旅の宿」といった大ヒット曲をかっ飛ばしたのだから、「青春の反抗」どころか、フォークをメジャー化した張本人そのものだったのである。

 実を言うと、こんなことは誰でも知っていることだと僕は思っていたのだが、自分がだんだん歳を重ねていくと、こんなことでもあやふやになって、妙な「伝説化」が進んでいくのだなと驚いた次第。重松清は43歳なので、『中津川フォーク・ジャンボリー』があった71年はまだ8歳だ。吉田拓郎が作った「襟裳岬」で森進一がレコード大賞を取ったときでさえ11歳であったことを考えると、彼が吉田拓郎について語った「青春の反抗者としての手本」というコメントは、彼の中のイメージに過ぎなかったことがわかる。

日本フォーク私的大全