受験シーズン(上)

 そろそろ大学受験も終わりを迎えたころだろうか。この季節になると、自分の受験体験を思い出す。受験というのはホントにきつかったが、35年も前の私の時代に比べたら、今の方がもっと大変なんだろうと思う。


 僕は当時の鹿児島県の少年としては比較的豊富な受験体験を持っている。とくに自慢にはならないが、小学生のときに中学受験し、中学生では高校受験し、高校生のときは大学受験を経験し、高校卒業後もさらにもう一度受験した。記憶が定かではないが、3勝9敗といったところである。10敗かもしれない。


 鹿児島県の小学生がどこの中学を受験できるのかといえば、かのラサール高校である。私の父親は受験に熱心な人で、客観的に見ればまず合格はおぼつかないであろうわが息子を、わざわざ受験させたのだ。もちろん、それなりに受験勉強もさせられた。なにしろ小学生のころから半徹夜で勉強したこともあるし、今なら珍しくもないけれど、受験生の冬期合宿にも参加し、通信教育で定期テストも受けていた。


 僕はラサール中学なんかに行きたいとはまったく思っていなかった。田舎ののんびりした小学生だったのだから、なにもそんな勉強の厳しい中学校なんか行きたいとは思わない。友達だっていなくなるし。そもそも私の成績では受かりっこないのは明らかだった。いくら小学生でも、いくつものテストを受けて自分の偏差値なども知っているので、その程度の判断はできる。それでべつにかまわなかった。


 今でも覚えているのは、受験当日、教室でテストが始まる前に行われた校内放送である。たぶん校長先生のスピーチだったと思うが、その方は次のように述べた。
「皆さん、これから入学試験が始まりますが、この試験が皆さんの人生のすべてではありません。もし落ちるようなことがあっても、皆さんの人生はこれから始まるのです。決して気落ちしたりしないでがんばってください」


 試験の前にずいぶん立派なスピーチではないか。僕はどっちみち受かるとは思っていなかったので、もともとそれが人生の破滅だとは思っていなかったが(そもそも小学生の僕に人生の破滅などイメージできない)、問題は難しくとてもじゃないが歯が立たなくて、予想通り不合格となった。おかげでめでたく地元の中学校に進学できた。


 受験好きな父親が次に目指したのが、鹿児島県の県立No.1進学校T高校である。本当はラサール高校を受験させたかったようだが、さすがに私の学力から見てそれは無駄だと判断したようである。ラサール高校どころか、そのT高校だって無理だと中学校の教師にいわれており、ぼくも同感だった。C高校ではダメなのか? と教師は聞いたが、僕に異存はなかったものの、父は頑としてT高校ではないとダメだと押し切ったのだった。


 田舎の中学校からは鹿児島市にあるT高校に入学することはできないので、まず中学3年の3学期から鹿児島市の中学校に転校した。そこの教師もT高校は無理だといったが、やはり父は納得しない。偏差値で見ると、T高校はとても合格レベルにないので猛勉強を強いられた。小学校時代にラサール中学を受けた時とは比べものにならないほど勉強させられてほとほとイヤになり、私はT高校など受けたくないと主張したが、父と母に、合格さえすればあとは楽になるんだから、今だけはがんばって勉強しろと説得された、というか命令された。


 結局、そのT高校に合格した。じつは、試験を受け終わったとき、かなりいいできで、自己採点でも非常に高得点だったので(自己採点では平均90点だった)、これは合格するぞとひそかに確信していた。それでも合格できたときはうれしかったし、自分なりにがんばったかいがあったと思った。


 だが、あとで判明するのだが、本当にぎりぎりでの合格だったのだ。確か合格者数は550人ぐらいだったと思うが、私は530番台の合格だったと教師に聞かされた。選挙だったら、やり直し投票が行われていたかもしれないほどの僅差当選だったのだ。ようするに、私ができたと思った入試問題は、ほかのT高校受験者にも当然やさしく、予想をはるかに上回る高得点が合格ラインとなったのであった。信じられない。そんな高校に私は通うことになるのかと愕然としたものだが、入学式で行われた生活指導教師の祝辞を聞いて、さらに愕然となる。話が長くなったので、つづきはまた次回。