『ガンジスに還る』

 17:44 『ガンジスに還る』を含むブックマーク 『ガンジスに還る』のブックマークコメントCommentsAdd Star

 試写の案内が来てタイトルを見たとき、深刻で重そうな映画かなと思って試写室に足を運んだ。たぶんバラナシで死を迎え、ガンジス川に遺灰が流されていく宗教的なテーマの映画かも、とかなんとか思いつつ映画を見始めたのだが、これはいい方に見当外れだった。

 バラナシで死んで、火葬された遺灰がガンジス川に流されるというのはその通りなのだが、深刻で重い雰囲気の宗教的物語というわけではなく、極めて現代的で日常的な一人の老人の死と、その家族の物語だった。

f:id:kuramae_jinichi:20181004173850j:image

 ある日、老人は夢で自分の死が近いことを悟る。そして、家族に向かって、自分はバラナシに行って、そこで死ぬと唐突に宣言する。ご存知のことだろうが、ヒンドゥー教徒にとって聖地バラナシで死を迎えることは、この世からの解脱を意味する。この上ない喜びなのだ。現在、バラナシで死ぬために年間数万人もの人が集まってくるそうで、まさにバラナシは死者の都市といってもいい。そういった人々が死ぬまで滞在する施設は、俗に「死を待つ人の家」と呼ばれており、この映画の原題HOTEL SALVATION 」はまさにその「死を待つ人の家」のことだ。老人は、そこで死を迎えることを強く希望する。

 ヒンドゥー教における聖地バラナシとはそのような場所であり、インドではそれがまったく異常なことではないとわれわれは考えがちだ。もちろんそれはまちがっていない。だが、自分はもうすぐ死ぬからバラナシに行くんだと祖父宣言された家族は、ごく普通の生活を送っている人々だ。死にに行く祖父を一人でバラナシへ追い払うわけにいかない息子は会社を休まなくてはならず、そこで非現代的なヒンドゥー死生観と、現代のインド社会の折り合いが付かなくなる。

 中年の息子は、おそらくわれわれとたいした違いのない極めて普通の現代人だ。祖父を連れて「死を待つ人の家」にたどり着くと、そこにいるサドゥーたちの姿を見ておびえ、こんなところに滞在するのは無理ですと祖父に泣き言をこぼす。汚い安宿のような部屋を見て、こんなところはいやだとまたごねる。それは初めてインドに行ったバックパッカーと大きな違いはないかもしれない。

 祖父と息子はその「家」で、長いあいだ死ねずにいる老女と出会う。「なかなか死ねなくてねえ」と笑うその女性から食事をごちそうになり、息子が「サンキュウ」とお礼をいうと、老女は「近頃の人はすぐお礼をいうのね」と笑う。息子はあわてて「ソーリー」というと、老女は「今どきの人ねえ」とさらに笑う。

 インドでは親切な行為に対して「ありがとう」といわないといわれていた。ヒンディー語では「ダンニャバード」だが、僕も人々の日常的な会話の中で日本人のようにいちいちありがとうといわないことは感じていた。だが、今ではヒンディー語ではいわなくても、英語でなら気軽にいうようになっている。それを老女は「今どき」と笑ったのだが、息子の日常感覚はわれわれと少しも違わない。そういう人間が、祖父の死を迎えるために聖地バラナシで滞在することになるのだ。

 宗教的であろうが、現代的であろうが、すべての人に死は訪れる。われわれ日本人は、インドのような「死を待つ人の家」を持たないかわりに、「死を待つ病院のベッド」を与えられる。バラナシでも自殺するわけではなく、自然に訪れる死を待たなくてはならない。死を待ちながら生きる残りの人生を、バラナシという聖地で過ごすか、病院のベッドで過ごすかの違いだ。

 祖父は息子にこういう。

「私はゾウだ」

 ゾウは死期を迎えると群を離れ一人どこかで死を迎えるといわれることにたとえたのだろう。先日なくなった樹木希林さんは、「死ぬときぐらい勝手にさせて」とおっしゃったそうだが、このインドの老人も、ゾウのように死なせろと息子にいったのだ。そこに大きな違いがあるようには思えないが、それを受け止める社会が大きく違うのだろう。

 この映画にお涙ちょうだいのような悲哀や、死を演出する暗さは微塵もない。ただ「人は死ぬ」という誰もが知っているはずの事実を、ときにユーモラスに、淡々と描いているだけだ。そこにこの映画の美しさがある。

 バラナシを訪れたことがある旅行者は、この映画を見れば懐かしさでいっぱいになるだろう。路地を歩くと、「ラーマ・ナーム・サッチャー・ヘーイ」と唱和しながらオレンジ色の布に覆われた遺体を運ぶ人々、焼き場の煙、ガンジス川のプージャ、異様な姿のサドゥー。旅行者がバラナシで初めて見る光景がスクリーンに映し出され、バラナシにいるような気分になれる。バラナシの好きな人には特におすすめだが、旅行者に限らず、どなたにもおすすめできるおもしろく優れた映画だ。

 10月27日から岩波ホールほか全国順次公開。