僕の高校時代──1971〜1975(2)テスト、テスト、テスト
劣等生という刻印を押しつけられることから始まった高校生活は、その後も惨憺たるものであった。進学校というのは成績がすべてである。成績がよければ教師から優遇してもらえるし、悪ければ存在意義を認められない。例えば、どんなに部活動で活躍しても、クラスの人気者であっても、成績が悪ければ何の価値もないのである。教師は、最初のホームルームで、部活動などはなるべくしないように、それから映画もなるべく見ないように、男女の個人的な交際は絶対にしないようにと実に細かく指導するのであった。
もっとも、僕は部活動で輝きを放つスポーツマンとはほど遠く、クラスの人気者となりうるほどの人格者でもなく、冗談をとばせるようなキャラクターでもなかった。そのうえ体育の授業で行われる宙返りさえ満足にできないほど運動能力が欠如していたので、いかなる意味においても文句のない劣等生であった。劣等生には劣等生のグループが自然とできあがるものだが、そういったグループと親しくつきあえるほどの社交性もないありさまだった。
だからといって、僕は劣等生であるのをよしとしていたわけではない。宙返りは最後までできなかったが、教師に励まされて猛烈と勉強はした。せざるをえなかつた。
入学式のとき、校長が次のような衝撃的な祝辞を述べた。
「今日入学してこられた皆さんは、大変な努力をして、この高校に入学されたことでありましょう。しかし、これからはもっと大変です。学校から帰ったら、自宅で1日最低7時間は勉強して下さい。そうでないと、とてもついてこられませんよ」
1日7時間? 学校での授業が8時間だから、合計15時間も勉強しろというのか。まさか冗談だろう。まあ、それくらいの気構えでやれということなのだと僕は勝手に解釈していたのだが、これがそうではなかった。本当にそれくらいやらないと終わらないほどの課題やら宿題やらテストやらが毎日待ちかまえていたのである。校長先生は決して冗談をいわないことを、あとで思い知った。
まず、簡単な10分間テストが英語の授業の冒頭で毎日行われた。前日の授業の習熟度を計るテストだ。教師の解説をもとに生徒同士がその場で採点し、10点満点のうち5点未満だと、床に正座させられるのである。普通は15分程度だが、教師の機嫌が悪いと授業の大半を正座で受けなければならない。実に屈辱的である。
床に正座すると、教師の声は聞き取りにくいし、黒板は見にくいし、ノートも満足に取れないので、ますます授業を受ける気になれなくなる。まったくもって納得いかない体罰であったが、効き目はあった。こんな屈辱的な仕打ちを受けるのがいやで、全員必死になって復習をしたのだ。
テストは年がら年中行われた。高校というのはこんなに多種多様なテストがあるのかと呆然となった。中間テスト、期末テスト、実力テストが各学期ごとにある。そのうえ業者が行う模擬試験が年に2度あり、夏休みと冬休みのあとには課題テストがあった。
つまり夏休みの1カ月、春と冬の休み1カ月を差し引くと、実質10カ月間に13回のテストが行われることになるのだ。年がら年中テストがあるというのは誇張ではない。
そのたびに成績表が配布され、順位が公表される。点数が悪いと、朝の授業が始まる前の補習に出席させられ、あるいは夏休みの間にも補習をくらうことになる。頭がくらくらしてくる。僕はこの補修の常連だった。
誰だってそうだろうが、そのような環境に僕は初め驚愕した。鹿児島といえばそれだけで田舎だが、その中でもさらに田舎の小さな学校でのんびり過ごしていた自分にとって、いきなり過酷な競争社会に投げ込まれたようなものだ。毎日どころか毎時間毎分が勉強勉強勉強で、休み時間もトイレに行く以外は教科書や参考書をにらんでいたし、昼休みになっても、校庭は遊ぶ者などいなくてがらんとしていた。もちろん下宿でも、入学式でいわれたとおり1日7時間の、いやそれ以上の勉強を欠かさず、下宿から学校までの間も単語カードをめくりながら歩いていた。すきあらぱ勉強。二宮金次郎もわが高校生にはかなわない。