バルカンの旅(2)ボスニア・ヘルツェゴビナ

 ボスニア・ヘルツェゴビナモスタルまで来ました。クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナの国境では、バスにイミグレーションの係員が入ってきて、パスポートを見るだけ。入国スタンプも押さないシンプルさ。
 ボスニア・ヘルツェゴビナに入ると、クロアチアと全然違う。クロアチアはヨーロッパだったけど、国境を越えると、こっちはいきなり中東アジア。オスマン帝国の影響が強く残っている感じで、なんかトルコの田舎に来たみたいです。それも20年以上前のトルコ。
 建物にはまだ銃弾の跡が残っているのにびっくり。20年近くたつのにまだ残っているのは、修復するお金がないのだろうかと思ったら、家主が逃亡して修理できなくなっている家も多いんだとか。

 モスタルの有名な橋スターリ・モスト。16世紀オスマン帝国時代に建造された橋ですが、1993年に内戦で破壊され、2004年に再建されました。夜になるとこのようにライトアップされます。

 モスタルからボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに到着しました。1984年に冬季オリンピックが開かれたところです。あれから30年。サラエボと聞くと、戦争のことしかイメージが浮かびません。

 バスで到着すると、旧式のトラムが走るトルコの都市のようなところでした。モスクのミナレットが街のあちこちに立ち、スカーフをかぶった女性が歩いている。イスラームの国なのだなあと実感します。知識にはありましたが、東欧の国がこんなイスラームの国であるということにいまひとつ実感が湧きませんでしたが、やってきてようやくリアルに感じました。
 お土産屋さんに、どこの国から来る人が多いかと訊くと、いちばん多いのはトルコ人だそうです。なるほどなあと思いました。土産物屋で売っているものも、トルコで見かけるようなものばかりですから。トルコ人は強い親近感を覚えることでしょう。

 ボスニアは紛争後20年経ち、サラエボには観光客も数多くやって来るようになって確実に復興していると思われます。ただ、写真のような傷跡は街のあちこちに残されています。

 何よりも不自然なのは、サラエボの近郊にも引かれている境界線。北側がボスニアクロアチア人のボスニア・ヘルツェゴビナで、南側がセルビア人の共和国であるということです。とくに国境の検問があるわけではなく、自由に行き来できますが、住民はいつもそれを意識して住んでおり、管理する官憲も南側はセルビア兵だそうです。常に導火線はそこに引かれているという感じがします。

 サラエボでは、突然強烈に疲れが出て、3日ほど寝込みました。2年ほど旅をしていなかったので、いきなり毎日歩くものだから身体が驚いたのでしょう。それでボスニアはこのサラエボだけで切り上げて、次はモンテネグロへ向かいます。

※しかし、ブログの下にでかでかと写真付きでtwitterの記事が出てくるので、このブログに改めて載せるほどのこともないですね。もう先のことまでtwitterでつぶやきましたので、そっちをご覧いただければ幸いです。