やさしく歌って
1972年、アメリカのあるフォークソングの女性歌手が、友人に誘われてクラブに歌を聴きに行った。そこで歌っていたのは若き日のドン・マクリーンだった。彼女はその歌に魅了される。
ドン・マクリーンの歌「Empty Chairs」は、彼女の人生そのものを歌っていた。まるで自分の手紙を読まれてしまったのではないかとさえ感じるほどで、もうそれ以上歌うのをやめて欲しいと、彼女は大勢の観客の中でひとり赤面した。ショーが終わり、誰もいなくなったクラブで、彼女はその感情をナプキンに書き綴る。
その女性歌手の名前はロリ・リーバーマン。彼女はそのメモを作詞家に渡し、それが手直しされて曲が付けられ、彼女のアルバムに収録された。それが「Killing me softly with his song」という曲だ。
ここまで書くと、あれ? とお思いになる方も多いだろう。そう、この「Killing me softly with his song」はロバータ・フラックが歌って大ヒットした「やさしく歌って」だ。リーバーマンが歌ったときはあまりヒットしなかったこの曲を、ロバータ・フラックが飛行機の中で偶然聴き、それを気に入った彼女が歌って大ヒットとなった。
ここまでの話はBS-TBSの『SONG TO SOUL』という番組で紹介されたことだ。ロバータ・フラックの「やさしく歌って」なら、もちろん私も知っている。ヒットした当時も聴いたことがあったし、その後もコーヒーのコマーシャルでいやになるぐらい流れていた。私にとって毛嫌いするような曲ではないが、あまりにもポピュラーであり、それに「Killing me softly」と歌うのだから、まあ甘ったるいラブソングなんだろうと思っていたのだ。この番組を見るまでは。
ところが、ぜんぜん違ったのですね、これが。「やさしく歌って」の訳詩はネットでいろいろ掲載されている。「Killing me softly with his song」をどう訳すか異なっている。この番組の訳詞では「彼の歌で優しく私を殺しているわ」となっているが、「彼の歌は優しく私を虜にした」と訳すものもある。こっちのほうがいい感じがするので、以下に紹介する。
彼は素敵な歌を歌った
彼の歌声に惹かれたから
彼に会って少し歌を聴いてみたかったの
そこに初めて見る坊や、彼が居たってわけ
彼の指は私の痛みをかき鳴らし
彼の言葉は私の人生を歌い
彼の歌は優しく私を虜にした
彼の歌に包まれて死んでも良いくらいに
彼は私の今日までの全てを語っていた
彼の歌に囚われていく私が居た
体がほてって赤面し、人に見られないかと慌てたわ
隠していた手紙を一語ずつ読み上げられる気がした
やめてと私は祈ったけれど彼の歌は続いた
暗い諦めに漂う私の全てを知っているかのように彼は歌った
そして彼の視線は私を射ぬいた
私がそこに居ないかのように
けれど彼は歌い続けた、強く澄んだ歌声で
ロリ・リーバーマンがドン・マクリーンのステージで感じたことがここに綴られている。ぜんぜんラブソングじゃないですね。これがそのオリジナル版。
こっちは訥々とした素朴な歌い方で、まあ、ロバータ・フラックのほうがはるかに優れた歌唱力であることは明らかだが、逆にロバータの方は艶がありすぎて、歌の意味さえ違って聞こえるほど別物に仕上がっている。だから大ヒットしたのだろうが(リーバーマン本人もそれを認めている)。
しかし、こういう話は一種の都市伝説だという人もいる。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1467815989
その人の話はこうだ。
この曲の作詞者ノーマン・ギンベルは、自分がアイデアノートに書きつけておいた「Killing Me Softly With His Blues」というフレーズを作曲家のチャールズ・フォックスに、曲のタイトルとしてどう思うか聞いたという。「with his blues」は、1972年の今(当時)としてはオールドファッションじゃないかということになって、blues を song に変えた。
その後、歌詞の全体を書き上げ、二人は曲を仕上げる。そしてその歌をロリ・リーバーマンに聴かせると、彼女は大変気に入ってこう言った。
「私が、ドン・マクリーンのコンサートを聴いたときに、この歌詞に書かれているような気持ちになった」
この発言が、やがて間違った言い伝えになり、チャールズ・フォックスに言わせれば「都市伝説」になった。
こちらも信憑性があるような話に思えるが、番組ではロリ・リーバーマンが直接話していることなので、どちらが本当なのかはわからない。もちろんリーバーマンも人のいいおばさんのように見えたので、人々が喜ぶように伝説に合わせて話を語っている可能性もなくはないが。
ついでにリーバーマンが虜になったドン・マクリーンの「Empty Chairs」はこれ。残念ながら歌詞の内容はわかりません。