ヒッグス粒子は「神の粒子」なのか ──『強い力と弱い力』

 『旅のグ』が筑摩文庫に入ることになった。私が解説を書かせていただいた。この本は、旅行人にとって思い出深い、記念すべき本だった。5月に発売されるそうです。付録ページも付くそうですので、どうぞお楽しみに。

 さて、また理科系の本の紹介。興味のない方ごめんなさい。『強い力と弱い力』(大栗博司、幻冬舎新書)だ。タイトルの「強い力と弱い力」って、これが理科系の本なのか、力の強弱がなんでおもしろいんだとお思いになる方もいるかもしれない。まったくこのネーミングはいただけない。しかし、しょうがないのである。量子力学の世界では、非常に重要な2つの力を、本当に「強い力」と「弱い力」という凡庸な名前で呼んでいる。ご存知の方も多いと思うが、われわれの世界には4つの力が存在するといわれている。重力、電磁力、そしてこの強い力と弱い力だ。強い、弱いという名前は電磁力より強いか弱いかという意味だ。

 というわけで、この本は量子力学の解説本で、副題が「ヒッグス粒子が宇宙にかけた魔法を解く」である。そう、あの話題の「神の粒子」について書かれた本なのだ。ヒッグス粒子が何なのかについては、この本が一冊かけて解説するようなことであり、それを読んでもまだよくわからないぐらいのことなので、私がここで解説するという愚は犯さない。

 だが、このヒッグス粒子は、量子力学にたずさわった多くの学者たちが、長年にわたって構築した理論によって予言された素粒子なのだ。だからこの素粒子が(ほぼ)発見された(に限りなく近い)ということは、その理論が正しかったことを証明することになる。その理論を「標準模型」という。これもまた、長きにわたって多くの学者が築き上げた努力の結晶である割にはずいぶん凡庸な名前である。

 なんでこんな名前になるのか。例えばアインシュタイン相対性理論とか、ハイゼンベルク不確定性原理などのように、その理論の趣旨を言い表す名前にならなかったのは何故なのか。その理由を著者は次のように書いている。

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 一般相対論は、アインシュタインという飛び抜けた才能を持つ科学者がほぼ一人で築き上げました。これは実にシンプルかつ壮麗な美しさを持つ理論です。(中略)そこには「この理論しかありえない」と人を納得させるだけの力強さがありました。
 それに対して標準模型は、多くの物理学者たちが、さまざまなアイデアを出しあって作り上げたものです。何か辻褄の合わないことが見つかるたびに別の理論をつぎはぎして、苦労して作り上げたパッチワークのようなものなのです。(中略)なぜそうでなければならないか基本原理から説明されているわけではありません。
 標準「理論」ではなく、標準「模型」と呼ぶ理由もそこにあります。(中略)アインシュタインの重力理論のように基本原理だけから理論の全貌が決まってしまうという状況とは異なります。

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 量子力学は、研究と技術が進めば進むほど、次々に新しい素粒子が発見され、何故それが現れるのかを新しい理論でカバーし、さらに別の理論では新しい素粒子の存在を予言し、それを発見するという苦闘の歴史だった。標準模型は一筋縄ではいかない複雑な理論体系だったのだ。

 そのなかにあって、今度発見された(に限りなく近い)ヒッグス粒子は、珍しく「神の粒子」というキャッチーなニックネームが付いている。そういうこともあって、マスコミ受けが抜群にいい。ところが、当の科学者たちはヒッグス粒子が「神の粒子」だなんてまったくデタラメだといっているそうだ。そのくだりがおもしろい。

 ヒッグス粒子標準模型で予言されていた粒子だったが、それを実際に発見するのは手間ヒマかかる実に大変な作業だった。ヒッグス粒子は質量を持つ素粒子だが、それがどのエネルギー帯に存在するのかわからない。したがって、あらゆるエネルギー帯をしらみつぶしに探索しなければならなかったのだ。実際、予言から発見まで48年もかかっている。
 あまりにも大変なものだから、苛立ったノーベル賞科学者レオン・レーダーマンが解説書にヒッグス粒子のことを「Goddamn Particle」と書こうとした。「Goddamn」とはグーグル翻訳だと「田舎者の白人野郎」(笑)だが、「ちくしょう」とか「ざけんじゃねえぞ」みたいな下品な言葉、ガッデム!です。それで編集者がこんなお下品な言葉はいけませんと、「Goddamn」から「damn」を取って「God Particle」にしちゃったってわけ。それで「くそったれな粒子」が「神の粒子」に変わった。それがマスコミに受けた。
 マスコミに受けることもあとの研究にとって大切なことなので、この編集者のネーミングは大ヒットだったわけだが、科学者にとっては「ガッデム」だったのですねえ(黒田あゆみ調)。