『遺体 明日への十日間』

 石井光太さんのルポ『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)が映画化された。昨日、その試写会に招かれたので拝見した。

 正直にいうと、実はちょっと気が重かった。私はネットで予告編をすでに見ており、それを見ただけで目頭が熱くなってきたので、映画を観ながらぼろぼろ泣くはめになるのではないかと思っていたのだ。最近は本でも映画でも、「泣ける」のが一つの売りになっているが、私はそういう「泣かせる」話が大嫌いなのだ。

 もうひとつ懸念したのは脚色の仕方である。石井さんの『遺体』をお読みになった方はご存知の通り、この本のテーマは極めて重い。全編が震災による被災者の遺体と、それに向き合う人々の姿だ。そこには映画的な恋愛物語もなければ、活劇もなく、しかも結末が明るいわけでもない。場所も遺体安置所からほとんど動かない。それをどのように映画的な物語にするのだろうか。

 上映時間は1時間45分。映画の場面は遺体安置所からほとんど動かない。地震の描写も最小限で、本震と津波は文字でその事実が示されるだけだ。つまり、この映画は地震の映画でも津波の映画でもないことをきっぱりと宣言しているのだ。しかし、累々と並ぶ遺体が常に映し出される。ある意味で異常な映画といわなければならない。

 だが、上映時間は緊迫の中でいつのまにか過ぎてしまう。物語の山場とか、クライマックスとかそういう場面はほとんどない。次々に安置所に運び込まれる遺体、それに向き合う人々のなかで、時間は過ぎ、そしてエンディングロールが流れる。そこまでくると、まるで自分が遺体安置所から出てきたような気持ちになる。

 これは決して「泣かせる」映画ではない。遺族の悲しみに共鳴して涙が流れることはあっても、それは映画の物語ではないのだ。その意味では遺体安置所の再現映像と呼びたくなるが、そうではない。やはりこれは物語のない映画なのだ。

 上映のあとに、石井光太さんと映画監督の君塚良一さんのトークがあった。君塚監督は、原作を読んで、すぐに映画化を申し入れたそうだ。そして、可能な限りこの本に忠実に映画化することに努めたという。確かにその通りになっていると思うが、文字と映像はまったく別のものであり、受けとるものは異なってくる。映画では脚本やカメラや役者の演技によって生々しい疑似体験に近くなる。

 試写会の上映が終わると、普通は拍手が出ることが多いが、さすがに拍手する人はいなかった。それは、やはりこれが普通の映画ではなく、そこに描かれた悲しみや傷みが、まだ観客の中にもくっきりと残っているからだろう。トークの司会者が、さすがに私も拍手はできませんでしたが、いち早く行われた被災地での試写では、上映のあと拍手がわき上がったそうですといっていた。それは地元の被災者が、この映画のサブタイトルにある「明日への十日間」となることを願っているからかもしれない。

 どんな人にもお気軽に見られる映画ではないし、興行成績でトップをとるような種類の映画でもない。3.11を経験した日本人が抱えなくてはならないものを、このような映画として残すことが必要だったのだ。石井さんも、映画制作者も、協力した被災者の方々も、そのような思いでこの映画を作り上げたのだろうと思う。