フェルマーの最終定理

 『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン新潮文庫)を読み終えた。お断りするまでもないが、この本は、数学の定理の証明を書き記したものではない。私がそんなものを理解できるわけがない。この定理を証明した数学者の物語を描いたノンフィクションである。

 ご存知の方も多いだろうが、フェルマーが提示した最終定理とは、アンドリュー・ワイルズというイギリス人数学者が1994年に証明するまで350年も証明されなかった数学の超難問だ。こういう超難問は、われわれのような数学の素人にはまったく理解できないようなものかというと、これが意外にそうでもない。この本には子どもでも理解できると書いてある。

 どういう定理かというと、
 Xのn乗+Yのn乗=Zのn乗は、nが2より大きい場合は整数解をもたない
 というだけの(一見)単純な定理である。
 例えば、Xの3乗+Yの3乗=Zの3乗の場合は、X、Y、Zに整数をあてはめることはできないということだ。子どもにも理解できる定理なので、プロ、アマチュアを問わず多くの人々がこの証明に取り組んだが、残念ながら350年ものあいだ証明できなかった。

 ここで、素朴な疑問を抱かれる方も多いだろう。そもそもそのフェルマーの最終定理を、350年前にフェルマーが提示したのなら、フェルマー自身が証明していなければならないはずではないか。私も同感だ。フェルマーは、数理論の本の余白に、この定理を書き記し、「私は証明できてるんだけど、これ以上書く余白がないので証明を書くのはやめた」と書いてほったらかしにした人なのである。性格の悪い人だったらしい。自分が発見した定理を、有名な数学者に送り付けては、「ほら、できるもんなら解いてみろ、おれは解けたんだぜ、うひひひ」というので、当時の数学者からひどく嫌われていたらしい。

 それでも、性格はともかく数学者としての実力は認められていたようで、この定理も、数学のプロやアマを燃え上がらせる問題だった。しかし、ことごとく敗れ去ってしまったのである。ワイルズが解くまでは。

 ワイルズさんがどのようにこの定理を証明したか、私にはぜんぜんわからないし、そもそもこの本にも書いてない。書いたってどうせわかりっこないんだから。興味深いのは、証明の仕方である。ワイルズは10歳で地元の図書館でこの定理を見て、それから人生の半分をかけて証明に取り組んだ。350年前の定理だから、その当時の数学で証明できるはずだ。だからワイルズは、まず17世紀の数学を学んで、それを使って証明しようとした。だが、それはできなかった。数学の理論は日に日に進歩する。350年前には想像もできなかった理論や定理が生み出されている。ワイルズは方針を変え、それら最新の数学理論を取り込んで、あるいは自ら考案した新理論を組み込んで、ようやく証明に成功するのだ。

 とすると、ここでまた疑問が湧く。350年前にはなかった定理や理論を使わないと証明できないような定理を、なぜフェルマーが証明できたといえるのか。自分でできたといっただけではないのか。当然のことを誰しもが考える。この本によれば、数学界は、フェルマーが証明できたと勘違いしたんだろうという懐疑派と、フェルマーは17世紀の数学で証明し、いまだにその手だてが発見されていないだけだとする楽観主義者にわかれるらしい(この人たちはまだフェルマー時代の数学で証明をしようとしているらしい)。

 さて、とにもかくにも多くの数学者や数学愛好者の努力によって、ようやく350年もの謎が解き明かされたのだ。ワイルズの証明の発表があったとき、歴史的快挙の瞬間に立ち会った数学界の人々は希望と喜びで湧き上がったらしい。それはよかったなと私も思う。

 だが、このXのn乗がなんとかかんとかという定理を証明して、いったい何になるのだ。それで世の中がよくなるのか、私の生活は改善されるのか、ガンの特効薬はできるのか、ノーベル賞を取った山中さんの研究は病気の治療に役に立つんだぞと思う方も多いことだろう。それはすぐに役に立つとかなんとかいう問題ではない、それは……、と、どこかに書いてあったけど、印をつけ忘れて探す時間がないのでやめた。