ようやく本を処分する

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 処分する本を廊下に積み上げる。もうすぐ業者が引き取りにやってくる。いったい何冊あるんだろう。数えるのもいやなので、500冊ぐらいってとこだろうか。これがなくなるとすっきりすると思ったが、本棚状況はほとんど変化なし。
 いったい何でも今までこんな本を本棚に積んでおいたのかという典型的なものが『世界現勢1996』とかいうような本。昔は毎年こういうのを買って資料にしていたのだが、今はネット検索でOKだ。
 安くはなかったが、ほとんど使わないままだったのが『シソーラス角川類語辞典』。これ杉浦康平さんの装幀がすばらしいので、それにうっとりして買ったのだが、使いにくいことおびただしく、ほとんど役に立たなかった(松岡正剛さんのように、素晴らしい編集だと絶賛する人ももちろんいます)。高いのとデザインで長年本棚にあったが、ついにさらば。私の場合、類語調べはネットで十分というレベルだ。

 業者が本を持ってってくれた。ほっとする。何冊かが外されていたが、日本語の本でないと売れないので引き取らないらしい。古いロンリープラネットや、現地で買った資料本など、もう見ることもないだろうから、廃棄処分ということで、もっていってもらう。ついでに、友人に押し付けられたセガ・サターン、全然おもしろくなかったドリーム・キャスト、古くなったプレイステーションもついでに引き取ってもらう。
 それにしても、あっちこっちから本を引き抜いたわが家の本棚は、窓ガラスが割れ、蜘蛛の巣がはった荒廃したビルのようだ。ほこりがすごい。

 あまりに長い間動かさないと、本の天にほこりが積もる。やがてそのほこりは湿気を帯び、本の天にシミを作る。こうなると最悪だ。もちろん読むのに支障はないが、いかに長くほったらかしにしていたかの証明である。だから高価な本を箱に入れるのは意味があることなのだと思う。
 それで、本の天にほこりをためないために、私は並べた本の上に、横向けに本を詰めた。カバーの表紙に積もったほこりは、ぬぐえばきれいになる。天と違ってシミにはならない。しかし、本が取り出しにくくなるのだが、もともと取り出さないからホコリまみれになるのであって、取り出しにくくても支障はない(かなり矛盾した考えだが)。

 だが、そうやって本を詰め込んでいたら、他の問題が生じた。本が重くなりすぎて本棚がもたなくなってきたのだ。本好きは皆収納に問題を抱えているものだが、ただでさえ本は体積に比べて重く、それを二重三重に詰め込むとものすごく重い。これを解決する方法は処分する以外にない。
 私は特に読書家ではないが、それでも手に余るほどの本がある。これが読書家の本の量となるとすさまじい。雑誌で見たことがあるが、トイレや玄関に本棚があるのは当たりまえ。押し入れも廊下も階段も本に占領され、壁という壁はすべて書架になる。あれでよく家が潰れないものだと感心するぐらいだ。

 私もかつては本に囲まれた生活に憧れた。本棚に並んだ本の背を眺めているだけでわくわくしたものだ。しかし、それが徐々に仕事になっていくと、これも読まなくちゃならないのかと義務感が先に立ち、少しも読書への意欲が湧かなくなる。学校の宿題と同じだからね、読みたいわけないよ。
それはあまり本好きでなかったからだろう。例えば目黒考二さんなんか、書評家になる前からすごい読書量だが、書評を書き始めてからだって猛烈な量を読み続けている。仕事だろうがなかろうが、本を読む行為に対する姿勢は変わらないのだ。旅なんか嫌い、そんなヒマがあったら読書と公言するぐらい。しかし、そういう目黒さんでも競馬だけは何もかもさておいて出かけているようだが。
 それに、人生50を過ぎると、残りの時間でできることとできないことの仕分けが必要になる。どう考えたって、こんな本のすべてを再読することはないし、持っていることさえ忘れちゃうんだからね(笑)。
 今、事務所から帰ってきた妻が聞く。「本はもってってもらったの?」「うん」「それにしちゃ、何も変わってないね」それが問題だよな。