本、その他のモノを処分する──ツイッター編集版

【第1日目】
 今後の人生におけるテーマは、熟慮の末モノを減らすことに先日決定した。さっそく使わないプリンターを机から排除。そのプリンターが廊下にあって邪魔だ。机の上の方がよかったかもしれない。
 古いタワー型のウインドウズも捨てたい。もう長いこと使ってないので、これを廃棄するには、一度すべて配線し直し、コンピュータを立ち上げてHDDを初期化しないといけない。あー、考えるだにめんどくさい。ハンマーでHDDを叩き壊す方が早いんじゃないか。どうせ外側はプラスチックだし。
 相当数の本も捨てたい。これまで資料として本棚に並べてあったが、ここ何年も資料として使わなくなった。ネット検索するせいだ。結局どんどん古くなっていく一方。新しいか古いかだけが大切ではないが、何年も見ないということは不要なのだろう。しかし本を取捨選択することほど困難なことはない。
 うちには本棚が10面ぐらいあるが、このうち2割の本を削減できれば大きな本棚を一本撤去できる。そうすると部屋が一挙に広くなる。う〜ん、見ない本のために狭い思いをすることはないよなあ。
 今までの旅で拾い集めてきた包み紙やパッケージやラベルなんてものも大量にある。もしかしたらコラージュとかグラフィックデザインに役立つんじゃないかと思って持ち帰った。一部はそうなったが、これも普通はただのゴミなんだよなあ。この前は福岡アジア美術館の方が喜んで展示してくれたけど(笑)
 数百冊の新書が本棚を占めているが、古い新書って今後読み直すことがあるのだろうか。本棚を見渡すと、残りの人生で、これらを読み直す時間がないことだけははっきりわかっているんだよな。
 本・雑誌削減計画を実施中の裏には、DVD増殖中という悩みもある。ケーブルテレビの録画なので増え方が早い。なので最近は録画も熟慮するようにしている。
 私の3倍以上、服を持っている妻に、Tシャツ・シャツ類を捨てろと迫られている。まだ着ていないTシャツが箱に眠っているらしい。この前は着ないシャツを3枚ほど選んで捨てようとしたら、妻が奪い取って足ふきマットにするという。結局いつまでたってもなくならないじゃないか。
 つらつら思うに、死ぬまで持ち続けているものって何があるのだろう。本当は、旅行中に持ち歩く程度の服と身の回りのモノがあればこと足りるのだろうが。しかし、絨毯・キリムと、妻が集めた布は捨てられないだろうな。


【第2日目】
 さあ、今日も処分する本を選ぶぞ。と思ったら、いきなりケースに入った分厚くて重い本が目に入った。『講談社九十年史』。開けてみるだけでも気が重くなりそうだ。私の今後の人生で、講談社の歴史について調べることがあるだろうか?
 処分本15冊決定。ベランダの日なたで、計測限界の50度まで達した温度計が、下の階でも針が38度のまま動かず。さっきのショックで壊れたんじゃないのか。
 20代の頃買った新書を一掃することにした。加藤周一『羊の歌』、河盛好蔵エスプリとユーモア』、大塚久雄『社会科学の方法』、梅棹忠夫『知的生産の技術』とか当時は誰もが読んだ有名本。焦げ茶色に変色したこれらの本を私は読んだのだろうか。内容をぜんぜん覚えてないんだが。

 というわけで本棚から新書を150冊ほど排除する。ある読書家の方々がいっていたが、本を処分する場合、普通は読んだ本を捨てて、未読の本を残すが、それは逆だという。読んだ本は役に立つが、未読の本は不要だと。なるほどねえと思ったが、私はどうせ覚えてないわけなので、捨てちゃえ、捨てちゃえ。
 新書編は第一次決着がついたが、旅行を始めてから読んだものは覚えてるのが多い。そういうタイトルを見ていると、また読もうかなとは思うが、もう読まないんだろうなとも思う。ここまで捨てられたらうちの本棚は半分以上空くんだが。