諸行無常の生物

 『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一講談社現代新書)を読んだ。この本は65万部のベストセラーだと新聞広告に書いてあったが、私が5人にこの本の話をすると、すでに読んだ人1名、読みかけの人1名、買ったけど未読の人1名という結果で、なんと6割の人が持っていたという事実に65万部の恐ろしさがうかがえた。もっとも日本人の6割が買ったら65万部じゃなくて6500万部になるんだが。

 それはともかく、この本はおもしろかった。内容はけっこう難しい話だと思うのだが、実にわかりやすく書いてあるのがすばらしい。少なくとも、難しい数式や難解な用語はほとんど出てこない。誰が読んでも意味がわかる言葉だけで解説する文章の技術は並々ならないものがある。だからこんなに売れたのだろうねえ。

 では、この本にはいったい何が書かれているのか。僕がおもしろいと思ったのは、人間あるいは生物の身体も物理学でいうエントロピー増大の法則から免れ得ず、それでどうやって生物が生物たりえているのかという点だ。エントロピー増大の法則というのは(私が解説するのはちょっといかがなものかと思うが、とりあえず簡単に書くと)、万物はすべて熱いものから冷たい方へ進み、逆へは流れないという熱力学第2法則のことだそうだが、熱だけでなくて、万物はすべて平均化あるいは拡散する方向へ流れて逆方向はないという意味でもある(らしい)。

 生物がこの法則から免れ得ないとすると、いつか生物は熱い状態から冷たくなり死ぬ。わかりやすい。その通りだ。そればかりではなく、生物の原子も平均化あるいは拡散してしまったら死ぬ。これもそうだろう。生物としての個体が崩れてしまうのだから死ぬしかない。だから生物はこの法則に立ち向かって活動し、死なないようにしているのだそうだ。じゃあどうやって?

エントロピー増大の法則は容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷をうけ変性する。」
 そこで生物は、法則にしたがって「やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる」
 つまり、自然の法則で身体が壊れる前に、先に新しいのと取り替えてしまおうってわけですね。だから、身体の分子はいつも新しいものと取り替えられている。いわゆる新陳代謝ってやつですけど、これはエントロピー増大の法則に対抗する手段だったのですね。

 なんだそれは単に新陳代謝のことじゃんと思ってはいけない(ま、そうなんでしょうが)。たとえば、あなたがメタボリック症候群でおなかにたっぷりと脂肪を蓄えたとする。カロリーの高いものばっかり食べてるから、おなかに脂肪がたまるんだよなどと人はいう。それはまあ事実だ。しかし、おなかにたまった脂肪も、エントロピー増大の法則によればそのままの状態ではいられない。脂肪の分子も酸化され、分断され、離散するはずだ。なのにいつまでたっても離散しないとあなたは嘆いているだろう。

 実は、このおなかにたまった脂肪も、たまったままの状態で日夜更新され続けているのだという。たまっているという状態を維持しつつ、脂肪の分子はどんどん入れ替わっているというわけ。それも新陳代謝ってことになるのかはわからないが、生物の身体はそうやって、その状態を保ったまますべての原子やら分子やらが絶え間なく入れ替わることによってエントロピー増大の法則に立ち向かっているのだそうだ。これを「動的平衡」というらしい。

 エントロピー増大の法則は、もともと熱力学の法則だから、例えばこれを宇宙に当てはめると、熱い状態から冷たくなってしまうわけで、宇宙はやがて絶対零度の世界へと進んでいき、つまり宇宙の死を迎える。それも生物の身体も同じというわけだ。おお、なんという自然の掟であろうか。諸行無常ではないか。なまんだぶ。