『1Q84』重箱の隅

 新聞によれば、出版業界は起業する会社が戦後最低水準になり、廃業・倒産する会社が増える一方だとか、返本率が40%をなかなか切らないまま続いていてどうにもならないとか、まったくもって暗いニュースばかりだ。書店も厳しい状況にある。

業界紙新文化」が伝えたところによると、廃業店は前年の951店から144店増(前年比15.1%増)と大幅に増え1095店に達し、売場面積にすると5万7684坪となっている。」

 そんななか、景気のいい話といえば、皆様もご存じ村上春樹さんの『1Q84』(新潮社)が、2冊合わせて200万部に到達したことだ。もっとも1987年に出した『ノルウェイの森』は上下巻で単行本が450万部、文庫も合わせれば900万部売れたそうだから、これに較べればまだまだだ。ここ数年で見ても『世界の中心で愛を叫ぶ』とか『バカの壁』とか、100万部を超えた本はけっこうあるんだが、それでも200万部は確かにすごい。1冊1800円の本なので、売り上げは36億円!

 しかしだ。出版業界全体の総売り上げは9600億円なんだそうで、これは全然すごくない。例えばトヨタの売り上げは1社で23兆2000億円! 営業利益だって2兆2000億円。出版業界が総出でかかってもトヨタ1社の24分の1しかないってんだから情けない。

 暗い話はやめて、『1Q84』の話をしよう。といっても、私が文芸批評をするわけではない。タイトルにあるように重箱の隅をつつこうというわけだ。もちろん私は2冊とも買い求めて読了した。

 まず、この本をめくって謎だったのが、「装画=NASA/Roger Ressmeyer/CORBIS」というクレジットである。NASAの装画って何だろうとぱらぱらと本をめくってみたが、絵も写真も1枚も入っていない。それなら表紙かと思ってカバーをめくってみたが、そこにもない。不思議だ。それからむきになって隅々まで点検して、ようやくそれらしきものを発見した。皆様はお気づきになりましたか。カバー表の右下に1は黄色く、2は水色のシミみたいにくっつているものがある。これ、よーく見ると月なんじゃないかと思われる。いや、ストーリーから考えてもこれは月でしょう。

 この本の装幀は新潮社装幀室だ。私もやっていただいたことがある。村上春樹さんの新刊の装幀だから、装幀室のなかでも腕のいいデザイナーがやったと思うんだが、生意気なことをいいますけど、まあ、悪い装幀じゃないと思う。このデザインで200万部も売れたのだから、いい装幀だったという結論に異議はないが、でも村上春樹さんの新刊なんだから、もうちょっと突き抜けたデザインであってもよかったんじゃないかと思う。なんか普通というか無難なデザインに見えるのだ。それで、なんでシミにしか見えないような月をわざわざNASAから写真を借りてまで載せるかねえ。カバーをめくった中の表紙に、細工して刷り込むとか、やりかたはあったんじゃないかなあ。

 見返し(表紙をめくった色紙のところ)を見ると、使用されている紙はタントだ。タントかよと私は思う。タントだったらうちでも使ってるぐらい(これぐらいしか使えないというほうが正しいかな)安い紙だ。村上春樹さんの、初版38万部、定価1800円の新刊にタントを使うか。もちろんタントで悪いわけじゃない。タントを使うデザイン的必然性があったのだといわれれば、そうですかとしかいいようがない。だけど、タントという安価で平凡な紙を使ったら、突き抜けたデザインにするのは難しいでしょう。もうちょっと見栄えのする、意図のある紙を使ってくれよなと思う。ちなみにカバーに使用されている黒は、特殊なつや消しブラックで、これはけっこう高級感がある。

 いよいよページをめくって本文に入り、さらなる重箱の隅に突き進むことにしよう。この本を読んでいて非常に気になったことがある。語句統一の問題である。日頃から語句統一について目を光らせながら原稿を読んでいる習性から、趣味で読む本もついこのことがひっかかってくる。この本でも、ある言葉がまったく統一されていないことに気がついてしまった(気がつかなくてもよかったのに)。それは「隣」という言葉である。村上さんは「隣」という言葉をけっこう多用している。例えば「机の横」と書いてもいいところを「机の隣」というふうに書く。それが「隣」「隣り」「となり」と3種類あるのだ。これが気になって気になってしょうがない。

 考えられる原因は以下の3つ。
(1)校正ミス
(2)著者の意図的な書き方
(3)気にしなかった
 常識的に考えて、(3)はないだろう。あれだけ多用されていることを考えると、(1)も考えにくい。とすると、答えは(2)ということになるのだが、しかし、「隣」と「となり」を使い分けるのは考えられるにしても、「隣」と「隣り」を同居させるということはあまりないことである。「隣」と「隣り」だけだったら校正ミスだろうと判断するところであるが、3種混合はどうも理解できない。案外(3)の「気にしなかった」だったりして。

 最後に、極めつきの重箱の隅。2巻目177ページ14行目をご覧下さい。ただし2刷り以前です(それ以降の版は確認していないので、本屋で確かめてからご報告します)。優秀な新潮社の編集部でも、村上春樹さんの新刊でこういう校正ミスを犯すこともあるのですね。
 もちろんこれまで私が指摘したことは、小説のおもしろさとはまったくの無関係なので、読みたい方はぜひどうぞ。

 


追記 書店で確かめてきました。私が見た6刷では、すでにきちんと校正されていました。さすが新潮社です。