グラフィック・デザイン

 私は自分の職業を書く欄があると、グラフィック・デザイナーと書いている。他にも編集者とかイラストレーターとかあるが、まあ適当である。たいした話ではないが前回からのからみで、今回はそのグラフィック・デザイナーのことを書いてみたい。

 私は美術系の大学ではなく、普通の大学の法学部を卒業した。本当は漫画家になりたかったのだが、描いた漫画が出版社に全然理解されず、挫折してイラストレーターに変更。しかし、イラストレーターと名乗っても仕事が来るわけではないだろうと思い、当時、比較的仕事が得やすいグラフィック・デザインの仕事もやることにしたのだ。

 イラストレーターは、自分が描きたい絵があり、仕事がくれば職業として成立する。しかし、グラフィック・デザイナーは、デザインのための基本的知識がないと仕事にならない。グラフィック・デザインは広告などのアドバタイジングと、本や雑誌などのエディトリアルに大別できるが、私がやっているのはエディトリアルのほうである。雑誌のレイアウトをやったり、本の装幀をやったりする。これには一応、デザインのための基本的な知識が必要となる。

 私が卒業した大学の法学部ではもちろんそんなことは教えてくれない。私が最初にグラフィック・デザインについて学んだのは、学生のときにボランティアで手伝っていた漫画専門誌「だっくす」(のちに「ぱふ」に改名)のスタッフだったデザイナーの方からである。この雑誌はマイナーながらも当時唯一の漫画研究誌であり、全国販売していた。月刊誌だったが、しばしば発行が遅れ、1年に5〜6回ほど発行していた。マイナー誌といっても3万部ぐらい出していたのだ。

 そこでは自分の担当箇所は、取材、執筆、レイアウトまですべてやらなければならないことになっていた。考えてみれば今の本誌と同じである。取材や執筆は見よう見まねで何とかなるが(何とかなることにしたが)、レイアウトは印刷屋に渡す版下を製作しなければならない。印刷可能なものを制作するには、そのための最低限の知識が必要だった。そこで唯一のプロ・デザイナーである矢野敬子さんが、その場で指導してくれて、実地にデザインの基礎意識を学んだのだ。今の私のデザインの大元は、ほとんどすべて彼女の教授のたまものである。

 あるとき、矢野さんに「この写真は切り抜きで使って」といわれて、一枚の写真を手渡されたことがある。
「どこを切り抜くんですか?」私は矢野さんに聞いた。
「この人物を切り抜きにするのよ」
 はいはいわかりました。私はハサミを持ってじょきじょきと写真を切り抜き始めた。
「きゃ〜〜!」
 横で悲鳴が聞こえた。どうしたんだ?
「ホントに切り抜いちゃだめえ〜!」
「?」
「切り抜きというのはね、切り抜きに指定するのよ。ホントに切り抜いたら写真がダメになっちゃうじゃない。ああ〜、この写真、返却しなきゃならないのに、どうしましょう」

 このレベルの人間が、全国販売の雑誌を作ろうというのだから、矢野さんははらはらドキドキのし通しだったことだろう。彼女が教えてくれたデザインは、わかりやすく、実際の制作課程で指摘されることばかりだったので、すぐに身についていった。なによりも彼女のデザインは美しく、それがすばらしい制作見本となった。

 もうひとりのデザインの先生は写植屋のおばちゃんだった。こちらがちょっと珍しい書体を、意味もわからずに指定して、それを写植屋に持っていくと、その指定紙を見たおばちゃんが私をキッと見ていった。
「あんた、これどういう意味でこの書体を指定したの?」
「どういう意味って、いやなんとなくこういう書体がかっこいいかなと思って」
「そうかね。この書体はね、横組み専用の書体だよ。横組みで組んできれいなように設計された書体なんだ。それを縦組みで指定してるね」
 横組み専用書体があるなんて全然知らなかった。
「もう一度よく考えてから原稿を持っておいで」
 おとといおいで!ってなもんである。

 それからというのは、この写植屋のおばちゃんに、出直してこいといわれないように、必死に書体を考えたものである。彼女が実はけっこう有名な物書きだったことを知ったのは、それからずっとあとになってからのことである。『逆うらみの人生』(1981年、社会評論社刊。1993年に現代教養文庫から『超闘死刑囚伝―孫斗八の生涯』として復刊)の著作を持つライターだったのだ。

 大学を卒業後、もっときちんと習わなくてはならないのだろうと考えてデザイン学校に入った。同時に生活費を捻出するのと経験のために、広告代理店のデザイン制作部でアルバイトした。だが、デザイン学校では、実地に役に立つことはほとんど何も教えてくれなかった。少なくとも矢野さんや写植屋のおばちゃんが教えてくれたことに較べれば、まったく役に立たなかった。

 デザイン学校では、まずデッサンをやらされるのである。なんでグラフィック・デザインをやるのに石膏像のデッサンなんかやらなくてはならないのか訳がわからないが、この国にはデッサン信仰というものがあって、およそビジュアル系はみんなデッサンをやるのが基本だと考えているのだ。その次にやらされたのは色構成で、これは今でも多少は役に立っているが、ただポスターカラーを上手に塗ることが必要とされ、無用の技術となっている。そして最後まで文字のフォントも、レイアウトの組み方さえ教えてはくれなかった。いったいあれのどこがデザイン学校だったのか今でも理解できない。

 それに引き替え、アルバイトで入った広告代理店で学ぶことは、すぐに役立つことばかりだった。当然である。役に立たないことに金なんか払っていられない。広告代理店は本来アドバタイジング・デザインになるが、小冊子やパンフレットなどエディトリアル・デザインも必要になる。そこでさまざまな技術をチーフから手厳しくみっちり教え込まれた。本来は、デザイン学校ではなく、このチーフに授業料を支払うべきだったと思うほどだ。

 結局、私のデザインは学校で習得したものではなく、必要に迫られて現場の人々が手をさしのべてくれて身につけたものなのである。だから法学部卒のグラフィック・デザイナーなのだ。法律にはなんの興味もなかったが、彼女たちが教えてくれたデザインとその現場は、本当におもしろくて魅力的なものだった。私の師である写植屋のおばちゃんこと丸山友岐子さんは1995年に逝去され、矢野敬子さんは、1996年、40歳半ばにしてお亡くなりになった。