私の「夢のような機械」

 今さらだが、私は今年50になった。半世紀も生きてきたわけだ。50年前といえば、まだ日本が戦争に負けて10年しかたっておらず、私が育つにしたがって高度成長が始まった。僕が子どもの頃は、バスガールと呼ばれる公共バスの女性車掌がまだ花形職業だったが、今や国際線のスチュワーデスさえ、フライトアテンダントと名前を変えて花形職業の座から追われようとしている。

 この50年でさまざまな製品が開発され、一般家庭に普及してきたが、そういったもののなかで何が一番インパクトがあったのか思い出してみた。

 この50年というスパンでいうと、衝撃的だったのはテレビの普及なのだろうが、僕が物心ついたときにはすでにテレビは茶の間に鎮座しており、わが家にテレビがいつやってきたのか覚えていない。

 1968年にテレビのカラー放送が開始された。本格化したのは万博が開かれた1970年頃だと思うが、これははっきり覚えている。だが、最初の頃のカラーは色がひどくて白黒の方がいいんじゃないかと思ったほどだったので、あまり衝撃は感じなかった。

 父が初めてオートバイを買ったのも覚えている。まだ小学校に上がるかあがらないかの頃だったと思う(1960年始め)。オートバイにあまり興味がなかったので、うれしかった覚えはないが、そのバイクが盗まれたのは子ども心にもショックだった。

 次に何年もたってから父は軽自動車を買った。僕が多分小学校の3年頃のこと(1960年代半ば)だったと思う。何故かこれもたいして記憶にないのだが、クルマの掃除は何度もやらされた。中学生になってからは、夜中にその車を内緒で運転してドライブに行ったが、これは実に楽しかった。

 高校生から大学生になって、テレビも電話も自分専用を持つようになった。これはおそらく僕の世代からのことで、四歳年上の兄はどちらも持っていなかった。

 大学を卒業し、僕がイラストとデザインの仕事を始めた27年前(1970年代末)になると、留守番電話が普及し始めた。ソニーが5万円を切る留守番電話装置(電話は別物です)を発売して、僕ら(友人とフリーランス同士の事務所を作っていた)は夢のような機械を手に入れた気がした。これで事務所を留守にしても仕事を受け付けることができるのだ。

 1980年代になって、ようやく家庭用のビデオデッキが発売された。うちも10万円ぐらい出して買った覚えがある。これもまた夢のような機械だった。好きな番組を録画して保存しておけるなんて、まったく考えられないことだったのだ。これにも心から感動した。

 さらに驚いたのは、家庭用のファックスが発売されたことだった。これもまた夢の機械だった。仕事に使えるという理由で僕も買ったが、なんと25万円もした。しかし、これは本当に便利な機械で、これまでイラストやデザインの下原稿は、会ってわたすか郵送するしかなかったのを、即座に送受信できるのだから、仕事の上では革命的だった。

 そして、いよいよ家庭用のコンピューターが登場するわけだが、それはつい最近の話、などと思っていたら、僕が初めてパソコンを買ってからもう20年がたっているのだ。ああ。

 インターネットと携帯電話の時代になって、僕がこれまで衝撃を受けてきた「夢のような機械」──留守番電話やビデオデッキやファクスなど、存在感は薄くなる一方だ。ビデオデッキなんかはHDレコーダーに取って代わられ、あと数年でなくなってしまうだろうし、ファクスも使う人はグンと減っただろう。わずか20〜30年で、こういった製品が生まれて消えていくのだ。50のオヤジはこういった急激な世の中の移り変わりにボーゼンとするばかりである。