いいかげんな食器

 連休は益子の陶器市へ行った。益子の陶芸家と知り合いになってから、その方の自宅に泊まらせていただけるようになって、年に1度は行くようにしている。通い始めてもう10年近くなる。

 10回ぐらい行くと、だんだん買う作家が絞られてくる。最初は、その友人の陶器を買うことから始まって、その他に志野焼ふうのものを買ってみたり、赤絵のものを買ったりしたが、最初のころ買った食器は、今ではほとんど使っていない。お世辞ではないが、友人のものだけは今でも使い続けているが。

 その友人の作品も、10年たつと少しずつ変化して、以前のものは肉厚で重かった(だから頑丈で今でも割れずに使い続けている)ものが、最近は薄く軽くなってきている。使いやすくなったが、割れる確率が高くなり、半年ほど前にお気に入りの砂糖壺を割ってしまった。

 最初は、自分がどのような食器が好みなのかもわからなかった。だいたい食器のことなど気にしたことがないのだから、好みも何もない。それが、多分年をとったせいだと思うが、40になった頃から、急に陶磁器に興味を抱くようになった。イヤになるほど平凡でフツーの中年趣味という奴だ。染め付けが美しいと思うなんて20代、30代の自分からは考えられないことだった。

 それで益子に行くようになったわけだが、そうはいっても初めは何を買っていいかもわからず、自分が何を欲しているのかも判然としない。逆に言えば、何も見てもそれなりに立派なものに見えたのだ。それが回数を重ねるごとに、何がいいのかがわかったとはいえないにしても、自分の好みぐらいはできるようになってきた。これもまあ、時によって移り変わるのだが。

 で、最近の好みは、いいかげんな食器である。いいかげんというのは、精密にきちんと作られた繊細なものではなく、一見すると無骨でテキトーに作ってある食器がおもしろいなと思うようになってきたのだ。友人の食器はこれにあてはまらない。丁寧にきちんと作ってある。

 Tさんという人がそういう食器を作っていた。この人の食器は、普通の人の5倍ぐらい多く陶土を使用してあり、無駄に分厚く、異様に重く、どれもこれもひんまがっている。ご飯茶碗ほどの大きさがあるコーヒーカップは、あまりの重さに片手で持つのがつらいほどで、あまりに厚すぎて、熱いコーヒーが冷めてしまうという代物である。洗ったときも注意してカゴに入れないと、他の食器を割ってしまうほど重い。

 いったいなんでこんな無骨なものにひかれるのだろうか。繊細できちんとしたものも好きなのだが、Tさんの食器は使うたびに何かおかしくなって、つい笑いたくなってくるのだ。別にバカにしているわけではない。本人も一生懸命つくっているし、他の同程度の値段の食器に比べると原料費も多くかかっているわけで、それなのに、この人は何故かこういう食器しか作れず、自分でも重いと言って売っている。

 ばかばかしいほど不合理ないいかげんさにほっとするといえばいいのか。この程度のものだったら自分でも作れる(が、作れない)と思えるほどの気楽な雰囲気が漂っているのも心が和む一因かもしれない。使いやすくもないし、それほど美しいわけでもない。こういういいかげんな雰囲気のものを、テキトーに作り、売っているという気楽さがよいのだ。もちろん値段だって気楽な値段である。がりがり仕事をしていると、こういうとぼけたカップでコーヒーを飲むのがうれしくなってくる。