うるるん体験?

 インドへ向かう飛行機で30過ぎぐらいの女性と隣り合わせた。その人から小川京子に話しかけてきて、初めてインドへ旅行するので、よかったらインド入国までご一緒させてくれないかという。それで少し話をした。なんでインドへ? というありきたりな質問をする。

 その人は、日本では保母さんをやっていて、インドへはマザー・テレサの家でボランティアをするのが目的だという。それじゃカルカッタの安宿かなんかに泊まって、そこから通うのかと聞くと、そうではなくて、マザー・テレサでボランティアしたいと思ったけれど、インドには行ったことがないし、泥棒とか病気とかでインドはちょっと怖いので、どうやったら行けるのかネットなどでいろいろ探したという。そうしたら、そういうボランティア活動を斡旋する旅行代理店があって、そこで送迎付きの航空券から、日本語が通じる家庭へのホームステイまで、すべてアレンジしてくれるというのである。いくらだったかは聞かなかったが、そういう商売があるとは知らなかった。

 単純に考えれば、そんな金があるんだったら、それをそのままマザー・テレサの家に寄付したほうが、実際に日本からわざわざ行ってボランティア活動するよりも効率がいいし歓迎されるんじゃないかと思うが、まあ、それじゃボランティア活動をした気はしないんだろう。しかし、日本の保母さんがなんでわざわざマザー・テレサの家なんかに行く気になったのか。

 その人は、まよわずこういった。「うるるん体験がしたいんです」
「うるるん体験」って、テレビ番組の「ウルルン体験記(だったか?)」のことかい。つまり10日ぐらいホームステイして、それなりに(何かに)一生懸命がんばって、最後は別れの涙を流し合うってあれか。あれをマザー・テレサでやりたいのか。うーむ、わからん。世の中にはわからないことがたくさんあることは僕も重々承知しているが、これもまたそのひとつである。

 彼女は保母さんなので、子どもの世話をしてみたいのだそうだ。貧しいインドの子どもたちと仲良くなりたいのかもしれない。しかし、そんなガキだったら、何もわざわざマザー・テレサなんかに行かなくったって、サダルあたりにはゴロゴロいるし、仲良くしたくないといっているのにすり寄ってくるガキばっかりだ。あれじゃ物足りないかな。

 いうまでもないが、マザー・テレサの家は、カルカッタの路上で死にかかっている人々を世話するところである。いわばインドで最も悲惨な底辺のひとつといっていい。そういうところで「うるるん体験」するために、わざわざ何万円もの金を使って、たった10日間の労働力を提供する。実際には有効な労働力となりうるのか疑わしく、迷惑になるだけという話もあるが、要するに「感動をありがとう」といいたいために、インドの最底辺の場所を金で買うのである。自分の安全を確保して。

 それだったら、バックパッカーがサダルから暇つぶしにマザー・テレサの家にボランティアに行くのはどうなんだという話になるが、まあ、ある意味ではそれも似たようなものかもしれない。マザー・テレサの家はボランティアが必要なのだろうとは思うが、ボランティアと観光・暇つぶし・体験旅行は別物である。無償で、それなりのきちんとした労働力を提供して始めてボランティアと呼ばれるわけで、いくらタダでも邪魔になるようなのはボランティアではない。ましてや、始めから「自分が感動したい」という目的で行くのなら、観光とどこが違うのか。

 とはいえ、「感動したい」と思っていること自体は、まあしょうがない。それだったら、何もそんな旅行代理店に金なんか払わずとも、ただインドに、あるいは他の国へでも、一人でふらりとやってくればいいだろうに。怖いからというのでは感動なんか得られるわけがない。ある程度の勇気が必要だし、それに時間もかかるものですよ。インスタントな体験で感動できるほうが僕には不思議なんだが。