ミステイク

 本や雑誌を制作し、印刷所に入れる。出版社なので、こういうことをいつもやっているわけだが、毎回、この瞬間がおそろしい。間違ってやしないか、とてつもなく重要なミスを犯していないか、という不安がつねにつきまとうのだ。

 本や雑誌は、執筆者から原稿をもらってから印刷されるまで、幾度かのチェックを受ける。それは出版社によって異なるが、普通は、受け取った原稿の一回目のプリントアウト(初校)を、編集者が読み、校閲がチェックし、著者に戻して著者に読み返してもらう。うちの場合は編集者であるわれわれが校閲も兼ねている。

 校閲とは、事実関係をチェックする校正で、例えば、執筆者が「富士山は高さが3776メートルである」と書いていた場合、本当にそれが正しいかをチェックするのである。校閲がどれほど優秀かによって出版社の質が決まるといわれるぐらい重要な部署だ。富士山の高さぐらいならすぐに調べがつくからいいが、例えばこれがアフリカ旅行記なんかで、「ブルキナファソの○○という小さな村の人口はわずか50人」などという文章が出てきたりするとお手上げである。人口はおろか村の名前だって確かめることは困難だ。

 うちの場合は海外旅行関係なので、こういうこともあるわけで、これはもうしょうがないから執筆者を信じてそのまま掲載する。しかし、調べがつく限りはチェックする。執筆者を信用しないわけではないが、誰だって間違いはある。だからそれを前提に、こちらもチェックする必要があるのだ。これをちゃんとすると執筆者から感謝されるし、感謝されるとこちらもやり甲斐があるし、本・雑誌を作っているという実感が湧くのである。

 例えば、僕の場合こんなことがあった。むかし『旅で眠りたい』を新潮社から出したとき、僕は熊本に立ち寄った際に、喫茶店日本シリーズの巨人・西武戦を見たと書いた。そうすると校閲が、この年の日本シリーズは巨人・近鉄戦であると注意が入ったのだ。僕の記憶では巨人・西武だったが、この場合はもちろん校閲の指摘が正しい。校閲はこういう細かいところまでチェックしてくれるのである。もちろん僕は校閲の細かさに深く感謝した。その節はありがとうございました。

 去年の夏頃のことだったか、あるクルマ雑誌ですごいミスを発見したことがある。何台かのクルマが紹介されているのだが、その説明文を他のクルマのものと入れ間違えていたのである。つまりトヨタのクルマの説明が日産のクルマになっていたりしたのだ。それをあれこれ入れ替えながら僕は読み通し、まあそれはそれで楽しめなくはなかったが、出版社をやっている立場から見ると、卒倒しそうな事態である。こんなことが起きるものなのか。

 さっきの話の続きだが、初校が著者から返ってきたら、直すべきところを直して2回目(再校)を出す。これもまた編集が読み返し、レイアウトを組む(初校段階でやることも多いが)。雑誌の場合、再校は著者に戻さないことが多い。単行本の場合はこれを最後まで著者に戻し、三校までとることもあるし、直しが多い著者は四校、五校ととることもまれにある。うちの場合は最高で六校までとったことがある。

 編集部が書く記事だと、執筆者への戻しはないが、レイアウトを組むのにデザイナーが記事を確認するし、組まれた記事を少なくとも担当編集者が読むし、さらに編集長がチェックするはずだ。さらに色校正のときにもう一度デザイナーと編集者がチェックするのが普通だから、都合4〜5回は誰かがチェックしているはずなのだ。それなのにそれを通りすぎる間違いがあるから不思議である。誤植程度ならわかるが、記事がまるまる入れ替わっているのを見逃すことはほとんど奇跡である。しかし、こうやって起きることはあるのだ。もって他山の石とすべし。印刷所に入れるときの不安感は、このこと(自分もいつかやらかすかもしれないということ)を恐れているからである。

 ちなみに、そのクルマ雑誌は、次の号で謝罪し、もう一度刷り直して、新版と交換することを告知していた。心からご同情申し上げる。