場末感漂う成田空港第3ターミナル

 今回初めて成田空港第3ターミナルを使用した。2015年4月に開業したそうだが、いやびっくりしましたねえ。何がって、その場末感いっぱいな雰囲気に。これが天下の成田空港のターミナルなの?って感じ。
 LCC専用ターミナルだからこんなもんでいいんじゃないの? という感じで作られたのがありありです。そりゃまあLCCなのだから発着料を安くするには設備を落とすしかないと言わればその通りでしょうが、まず電車が着くターミナル2からターミナル3へ向かう通路がすごいよ。2から3へは650メートルの表記があるのだが、これ全部建物の外。屋根と壁は付いているが、壁は透明ポリカの波板みたいなもので囲われているだけで、夏は暑くて冬は寒いこと間違いない。
 空港の連絡通路って、建物の中で「動く通路」が設置されているのが普通だが(成田だけじゃなくて今はどこでもそれが普通だ)、もちろん屋外にそのようなものはなく、まるで陸上競技場のトラックのようなペイントで「↑500m」と描かれているだけだ。
 こんなところを650メートルも歩くのはつらいだろうということで、途中に何カ所か休憩所がある。休憩所がある連絡通路って初めて見た。もちろんここも半屋外なので冬は寒いし夏は暑いことに変わりはない。
 もちろん連絡バスも走っていて、3〜6分おきに運行されているが、6分待つぐらいなら歩くよという判断が間違いだったかもしれない。
 ようやくターミナルに到着すると、内装もほとんどおざなり。低い天井はむき出しのままで配管が見えている。もちろんおしゃれでやりましたという感じはまったくなし。オープンして4年半。まだ新しさがあるけど、10年たったら悲惨だぜ。

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おしゃれ感とはほど遠い剥き出しの天井

 さて、今度は帰国して、チェックインバゲージを受け取りに回転台へ行く。何台かの回転台があるが、どの回転台がどこからの便のものかわからない。普通は一つの回転台に便名と出発地が書かれたモニターが設置されているものだが、それさえない。それで係員に聞くと「ありますよ」と少々むっとした声で指さされた方を見ると、おお、確かに一台のモニターがあった。そのモニターにはどの回転台がどの便かを示すリストがまとめて表示されていた。
 荷物を受け取り、バス乗り場へ行く。ここもまたかなりテキトーにつくられたバス乗り場で、なんと壁は工事現場で仮に使われる単管パイプで支えてあるではないか。そこらへんの月極駐車場だよ、これじゃ。

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バス乗り場

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上の写真の拡大。紛う事なき単管パイプのつっかい棒。これで完成なの?

 こんな設備で、他のターミナルと同じ設備使用料を徴収するとはずいぶんじゃないか? と思ったら、ターミナル3は1、2の半額なんだな(1、2が2090円、3が1020円)。だから文句言うな! ってことですか。へ〜い、わかりましたよ〜。

【追記】バス乗り場の単管パイプはさすがに仮設だったようで、2022年ごろに隣接する貨物ビルを撤去してターミナル3の拡張工事が完成するらしいです。今後、ターミナル1も2も続々と増築されるようです。

sky-budget.com

アジアハンター小林真樹『日本の中のインド亜大陸食紀行』(阿佐ヶ谷書院)を読む

  希有な本が小さな出版社から刊行された。日本でインド亜大陸の食文化を追求しようという本だ。それだけ書くと、日本にあるインドレストランのガイドブックかと思ってしまうが、この本に書かれているのは、一般的なレストランに加え、普通の日本人ではまず発見できない(看板さえない)レストランであったり、モスクやグルドアラ(シク寺院)の礼拝後に供される食事だったり、日本に住むインド人などの家庭で招かれて食べる食事だったりする。

 この本はいわゆる一般的なレストランガイドではなく、いろいろな読み方ができる珍しい本だ。一つは、最初に書いたような日本にあるインドレストランの案内書として。これほど多くの、多種多様な南アジア(インド、ネパール、パキスタンバングラデシュスリランカなどのインド亜大陸地域)料理を、日本各地で味わうことができるということに驚かされる。南アジアの食で使用される食材、スパイス、器具についても、図鑑のようなコラムが設けられ、写真付きで説明されている。

 二つ目は、日本にある南インド系レストランの実態だ。これらのレストランがいかに日本に広がり、そしてどのように経営されているのか、レストランのオーナーのインタビューを交えて取材されている。老舗といわれるレストランがいかにしてここまでやってこられたか簡単な歴史もあきらかにされ、どのような人々がレストランに集まってくるかなども描かれている。極めつきは北関東にあるナーン製造工場の話だが、それはぜひ本書をお読みいただきたい。

 三つ目は、食文化から入っていく日本の南アジア系移住者の世界だ。著者の小林さんは、アジアハンターという南アジアの食器・雑貨などを輸入販売する会社が本業だ。その営業で日本全国の南アジア系レストランをまわって、食器その他の備品を販売している。小林さんは仕事で知り合った南アジア系の人々の伝手で販路を広げていくので、彼らとの付き合いは一般の日本人とは比較にならないほど濃密だ。日本にいながら、明日はネパール人、明後日はパキスタン人、その次の日はインド人のレストランと、仕事のある日は常にそういう世界をまわり歩いている。そこから見えてくるのは、日本に移住してきた南アジア系の人々の生活そのものだ。

 例えば、ネパール人が日本にやってきてレストランを開業しようとすると、ネパール人の不動産業者がレストラン物件を斡旋してくれ、ネパール人の改装業者がレストランに仕立ててくれるので、今や日本語が一言も話せなくてもレストランの開業が可能になっているという。

 小林さん自身が南アジアの食事が偏執的ともいえるほど好きなので(小林さん、すみません)、仕事じゃなくても、南アジア系の人がいそうなところをつねに訪れている。サッカーにはぜんぜん興味がないのに南アジア人のサッカー大会まで見にいくぐらいだ。

 去年小林さんがインドに行き、その様子をFacebookにアップしていたが、あるとき「さすがにインド料理に食傷気味なので、パキスタン料理を食べに行く」という。インド料理に食傷してパキスタン料理を食べに行く人が世界のどこにいる? 「あれはウソですよ」と彼をよく知る人がいったが、あとでそれはウソで「たまには言ってみたかった」ということだったらしい。

 そういう人でなければ、こんな本を書くことはとてもできなかっただろうし、阿佐ヶ谷書院のような出版社でなければ、本になることもなかったかもしれない(もちろんうちでも本にしますけど)。日本にある美味しいインドレストランガイドなら他の出版社でも出しただろうが、これはそうじゃないし、そもそもうまいかまずいかもあまり書かれていない。というか、往々にして説明もなく料理名が書かれているので、僕もそれがなんの料理かはネットで調べないとわからないほどだ。

 こんな希有な、そして貴重な本は、南アジアの物品を日本在住の南アジア人に売り歩くという商売をやっていて、自分も南アジアの食事や文化が好きで、それに加えて文章も書けるという人間でなければできないし、それを書けと勧め、儲からなくても本にするという出版社がなければできない本だ。

 2200円という価格は、もしかしたら1冊の本としては高いと感じる方がいるかもしれない。だが、そうではないのだ。これだけは読者に理解していただきたい。2200円で出しても、実は著者も出版社もほとんど儲からないのだ。これがベストセラーになって数万部売れれば話は別だ。めっちゃ儲かる。だが、こんなニッチな本が数万部売れるとは著者も出版社もまったく考えていない(と思う)。数千部売れれば、ばんざ~い! とよろこぶ規模なのだ。業界的な常識として「万の位」の刷り部数であるとは考えられない。だから、この2200円は本当に本当に安い。著者と出版社の大サービス特別価格なのだ。そして、小林さんが書かない限り二度とこのような本が出ることはないだろう。なぜなら誰もこんな本は書けないからだ。

 それにしても、すばらしい本であるではあるけれど、こんな渋い本がいったい何部売れるのか、僕は自分の本のように気がかりだったが、なんと昨日SNSで阿佐ヶ谷書院から重版報告があった。すばらしい! みなさん、ありがとう。もっと買って下さい! この本がたくさん売れ、小林さんの健康が損なわれないことを祈るばかりである(いくらなんでも食べ過ぎでしょ!)。

日本の中のインド亜大陸食紀行

日本の中のインド亜大陸食紀行

 

 

北澤豊雄『ダリエン地峡決死行』を読む

 旅行者の間でよく知られる国境の難所がある。なかでも最も渡るのが難しいとされるのが、パナマとコロンビアの国境だ。国境地帯はジャングルで、もちろん交通機関はなく、猛獣もいれば武装ゲリラもいる。ここを陸路で渡ろうとする普通の旅行者はまずいないのだが、憧れからか冒険心なのか、旅行者がよく「このダリエン地峡を渡ってみたい」というのを聞いたことがあった。

 それに果敢に挑んだのが、このダリエン地峡決死行』の北澤豊雄だ。いったい彼は何故こんな危険な場所に行こうと思ったのか。

「私はそれまで冒険旅行にはまるで興味がなく、山登りやハイキングも苦手であった。腕立て伏せも今は二十回できるかどうか」という33歳の男が、バイトをしていた日本食レストランの社長に「おもしろいところがあるんだぜ~」と半ばそそのかされて一歩を踏み出してしまうのだ。

 動機はともあれ、彼はダリエン地峡に突き進んでいく。しかし、もちろん簡単なことではない。なにしろ猛獣とゲリラが跋扈する本物のジャングルだ。単独では行けないので、「コヨーテ」と呼ばれるガイドを雇わなくてはならないのだが、これもまた危険で、下手なコヨーテを雇うと、ジャングルで殺されて金品を奪われてしまうという。それを読んだだけでも、そんなことやめとけばいいのになんでわざわざやるかねえと僕は思ってしまうが、もちろん彼はひるまずに(正確にいうと多少はひるみつつも)、コヨーテを雇ってジャングルへ突き進む。

 だが、出発して一日目でコロンビア政府軍に見つかって捕まり、あえなく失敗。捲土重来を期して2回目に挑戦するが、それも失敗。そして…………と、懲りずに挑戦し続ける彼の物語は本書をお読みいただきたい。

 危険な場所にもかかわらず、ダリエン地峡を渡る人は多いという。ここを渡る人間は、もちろん正規にパナマアメリカに入国できない密入国者だ。職を求めてパナマアメリカに潜り込もうとして危険を冒す。驚いたことに、キューバ人、ソマリア人、マリ人、バングラデシュ人までいるという。バングラデシュからいったいどういう経路でこんなところまでやってくるのか(その理由も本書で説明されている)。 

 正直言って、僕にはこのような冒険をする人間の気が知れない。だが、こういうことはやったことのない人間には到底理解できないことだ。最後までハラハラドキドキの連続である。ゲリラに同行してジャングルを抜け、悪戦苦闘の末インド国境を越えた高野秀行さんは『西南シルクロードは密林に消える』という傑作を書いたが、ダリエン地峡決死行』はまさにその中南米版といったところだ。

 長年の謎だったダリエン地峡が、この本を読んでどういうところかようやくイメージできた。決死の冒険を行なった彼のおかげである。僕は決して行くことはないが、おそらく、やはり行くことはないであろう普通の旅行者の長年の疑問をこの本が解き明かしてくれることだろう。

 それにしても、北澤さん、金子光晴藤沢周平の文庫本をジャングルの中まで担いでいく?

 

ダリエン地峡決死行 (わたしの旅ブックス)

ダリエン地峡決死行 (わたしの旅ブックス)

 

 

西南シルクロードは密林に消える (講談社文庫)

西南シルクロードは密林に消える (講談社文庫)

 

 

インド先住民アートの村へ~ハザリバーグ画について

 去年の11月にインドのジャールカンド州へ先住民の家の土壁に描かれた絵を見にいって、今年の2月から3回、それについてのトークイベントや展示会を重ねてきた。次の5月18日に福岡アジア美術館トークイベントをやり、5月24~26日早稲田奉仕園でシリーズ最後のトークイベントと展覧会を行なう。早稲田奉仕園ではミティラー画、ワルリー画、ゴンド画、そしてハザリバーグ画などおよそ100点の民俗画を展示する予定だ。

 インド先住民の壁画を探して、15年以上前からインド各地の村々を訪ね歩いてきた。10年前それを『わけいっても、わけいっても、インド』という旅行記にまとめたが、残念ながらたいして売れず、読者からはインド先住民の壁画といわれてもピンとこないし、行っている場所もさっぱりわからないといわれた。まあ、その通りだろう。それで、在庫整理で何百冊か廃棄処分する羽目になった。

 昨年、板橋美術館で「世界で最も美しい本 タラブックスの挑戦」という展覧会が行われた。タラブックスはインドの出版社だが、インド先住民の絵画、ゴンド画などを美しいシルクスクリーンで印刷した本を作っている。こんな展覧会に人が入るのだろうかと思ったものだが、その予想をはるかに裏切って、美術館には多くの人がやってきて、インド先住民アートは一気に有名になった(その以前よりはという意味で)

 ちょっと出してみたら? と、親切な申し出を受けて、展覧会のミュージアムショップに『わけいっても、わけいっても、インド』を出したら、これまでの不振がウソのようにというか、羽が生えたようにばんばん売れた。生きているとまったく信じられないことが起きるものだ。

 この企画展は板橋美術館を皮切りに、日本各地や韓国を巡回し、現在は栃木県の足利市立美術館で開催されている。(2019年4月13日~6月2日)

https://bijutsutecho.com/exhibitions/3565

 

 去年訪れたジャールカンド州のハザリバーグ近郊の村々は、それまで見た壁画に比べていろいろな点で際立っていた。これまで見た壁画は、一つの地域でどの村を訪ねても、だいたい同じ様式で描かれていた。有名なミティラー画のあるミティラー地方の村は、どの村に行ってもだいたい同じスタイルの絵が描かれている(ミティラーは地方名で、そこに住む人々は先住民ではないが)ラージャスターン州のミーナー画も、ミーナーという先住民族が住む村で描かれ、同じようなスタイルで描かれている。ワルリー画もやはりそうだ。

 だが、ハザリバーグ近郊の村々に描かれた壁画は、村が異なるとまったく違うスタイルの壁画が描かれているのだ。はじめは村に住む民族(部族)が異なるのかと思ったが、そうではなく、同じ民族でも村が変わると絵のスタイルも変化する。僕が知る限りこういうのは珍しいし、そこを案内してくれた人も、インドでもここだけだという。村中に大きな壁画が描かれ、それはまるで「生きた美術館」だ。

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ハザリバーグ近郊の村ベルワラ

 ジャールカンドのハザリバーグ画は、インドでもまだマイナーな存在だ。今やゴンド画やワルリー画やミティラー画はインドでもニューデリーやムンバイなどの大都市で数多く販売されている。15年前のものと比べると、色彩が豊かになり、技術も向上し、壁に飾ると映えるような絵に「進歩」している。土壁の家に描かれていたものとはだいぶ変容しているが、人々が買い求めて壁に飾るのにふさわしいものになっている。

 それに比べると、ハザリバーグ画は、彼女たちの家に描かれた壁画そのものだ。プリミティブで荒々しく、売れて欲しいのに、売れる描き方をまだ知らない絵だ。いったいそれがいつまで続くのかわからないが、今はまだそのような描き方しかできないのだろう。

 このようなハザリバーグ画は、ずっと昔から伝統的に描かれ続けてきたと思っていたが、実はまったくそんなことはないという。村々を案内してくれたハザリバーグのサンスクリット美術館の人の話によれば、20年前は、村の壁画はほとんど消滅していたそうだ。それをサンスクリット美術館が20年かけて復活させたのだ。

 壁画は顔料で描かれている。昔は村人が山から採ってきて、石で細かく砕き顔料にして絵を描いていた。だが、近年は山に勝手に入って原料の石を持ち出せなくなり、市場で買わなければならなくなった。貧しい人の多い先住民にそんな金はないので、壁画も消滅していった。それを復活させるのに、サンスクリット美術館は顔料を市場で買い、村に配布し、村人に壁画を描くように奨励してきたのだ。

 もちろん民間の小さな美術館にすぎないサンスクリット美術館にも潤沢な資金があるわけではない。そこで、美術館では年に1度か2度、美術館でアートキャンプを開き、村人に紙を与えて絵を描かせ、それを販売して顔料の資金を稼いでいる。インドではまだマイナーなので数多く売れるわけではなく、おもにフランスの団体が大量に買い上げてくれるそうだ。だから、ハザリバーグ画の絵描きたちはごく普通の主婦や女性にすぎず、ミティラー画やゴンド画のように、アーティストとして有名になり、財をなしている人はいない。絵から得られた利潤は村の壁画に使われるだけで、金儲けができるわけではないのだ。

 ある意味で、このような売れ始める前の(今後売れるかどうかはわからないが)壁画を見られるのは珍しいともいえる。なぜなら、インドやヨーロッパで売れはじめてようやく日本にもだんだんと知られるようになってくるのが普通だからだ。ゴンド画やワルリー画は日本で有名とはいえないと思うが、それでも一部の人にはようやく知られるようになってきている。しかし、ハザリバーグ画はたぶん誰も知らないだろう。日本で紹介するのもおそらくこれが初めてのはずだ。

 というわけなので、皆さまにはぜひご覧いただきたいと願っている。収益の一部はサンスクリット美術館の活動に寄贈することにしているので、予算があり、絵を見て気に入ったら買い求めていただければ大変にうれしいが、見るだけなら無料なので、見るだけでも見ていただければと思う。

 2回にわたって行なうトークイベントは、前半がこれまで僕が訪れたインド民俗画の全容について。後半がハザリバーグ画を詳しく画像でご紹介する。2回とも見ると、インド先住民アートの全容がだいたいわかることになっている(もちろんまだ見たことがない知らない民俗画もある)

 そして、一連の展示会に合わせて、これまで撮りためてきた壁画の写真集も製作した。一部にはすでにご購入いただいているが、次の展示会でも販売するので、どうぞよろしくお願いします。遠方で来られない方には、旅行人Webから予約を開始しましたので、こちらからどうぞ。

https://ryokojin.co.jp/product/%e3%80%8e%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e5%85%88%e4%bd%8f%e6%b0%91%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%83%88%e3%81%ae%e6%9d%91%e3%81%b8%e3%80%8f/

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写真集『インド先住民アートの村へ』(6月10日発売、税込価格2376円)

 

 このような先住民の壁画は消滅していく趨勢にある。インドでも近代化がどしどし進み、保守派の首相でさえ観光地化推進のために聖地バラナシの古い建物を破壊するありさまだ。このような人々にとって先住民の泥の家など「後進性」の象徴であり、破壊の対象でしかない。現にインド政府は泥の家をやめてレンガの家を作るように多額の補助金を拠出している。これで泥の家はどんどん壊されつつあり、レンガの家には壁画は描かれない。日本人が誰も知らないうちに、こういう壁画が消滅してしまうかもしれないのだ。ハザリバーグ画の残る村々は一種の「奇跡」といっても過言ではないだろう。だから、インドにはまだこのようなアートが残っているのだということを、その目で見ていただければと思う。

 トークイベントのお申し込みはこちらからお願いします。たくさんのご来場をお待ちしています。

 蔵前仁一 インドトークインド先住民アートの村へ4

 イベント日時:2019年5月24日(金)〜26日(日) https://ryokojin.co.jp/2019/04/06/%e8%94%b5%e5%89%8d%e4%bb%81%e4%b8%80-%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e3%83%88%e3%83%bc%e3%82%af%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e5%85%88%e4%bd%8f%e6%b0%91%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%83%88%e3%81%ae%e6%9d%914/

 

『ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる』

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 ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる』というドキュメント映画を観てきた。

 ユーリー・ノルシュテインはファンの方には言わずと知れたロシアアニメーション界の巨匠だが、そのノルシュテインが取り組んでいるのがゴーゴリの名作『外套』のアニメ化だ。ところが、残念なことにその制作は現在中断していて、なんと中断期間は30年に及ぶ。ノルシュテインの『外套』制作と中断はファンの間ではあまねく知られており、誰もがいったいいつできるのか、完成する前に死んじゃうんじゃないかと皆が心配している。

 それで、本作の才谷遼監督がロシアへ乗り込み、いったいどうなっているのか! とユーリー・ノルシュテインに迫ったのがこのドキュメンタリー映画なのだ。

 だいたい巨匠ユーリー・ノルシュテインに面と向かって「いったい映画制作はどうなっているんですか」などと真正面から詰問できる人間はいない。関係者でさえ『外套』について話すのは「タブー」となっているらしい。それを「(どのような事情があるにせよ)30年も中断するなんて、どういうことですか!」と本人にいえるのは才谷氏ぐらいのものかもしれない。さすがに本人も素面でいうのは無理だったらしく、コニャックをボトル半分あけ、酔っ払った勢いで迫ったと試写会のあとでいっていた。その様子が映画のシーンに出てくるが、説明されなくても酔っ払っていることは見て取れる。

 なぜ30年も映画制作が中断されているのかは、様々な要因がある。ソ連の崩壊、現体制、現社会への憤り、あるいはスタッフの死、予算の確保、生活の安定などなど一言で説明できることではないようだ。驚いたのは、ディズニーから予算と設備を提供するというオファーがあったということだ。だが、結局ディズニーはなにもしなかったらしい。いや、できなかったというべきか。完成がいつになるかわからない映画にディズニーは契約など結びようもないのだろうし、ノルシュテインも、ディズニーのために映画を制作することなどできるわけがない。

 ノルシュテイン邸に1週間通い続けて、才谷監督は現在のノルシュテインの心境や状況を聞き出していく。ノルシュテインの答えもわかるようなわからないような問答が続くのだが、それが嘘偽りのない「状況」なのだ。

 78歳になったノルシュテインに残された時間は多くない。才谷監督が「この調子だと、できるまであと30年かかりますね」というと、ノルシュテインは真面目な顔をして、「やろうと思えば私は早いんだ。いつまでできるかなんてことはまったく考えていない」という。とりあえずノルシュテインが現在も元気であることを祝福し、なるべく早いうちに「やる気」を起こしてくれることを祈るばかりである。

(3月下旬、渋谷イメージフォーラムでロードショー)

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インドでスマホを使う

 旅の準備でデジタル機器について書いたので、今回はその結果をご報告したい。

 インドに着いて、すぐにSIMカードを購入した。Vodafonのカードでインド全国をカバーする。28日間有効で、データ通信は1日1GB、会話は無制限で600ルピー(約1000円)だからかなり安い。前回はスマートフォンが旧型だったのでつながらなかったが、今回は(簡単にとまではいかなかったが)きちんとつながって、ちゃんと使えた。

 ホテルのWi-Fiは電波が弱くて、ネットをみたり画像をアップするのに一苦労するが、こうやって自分でテザリングできると、Wi-Fiがないホテルでも簡単に通信できるので楽だ。今回は、ジャールカンドを旅したが、多くの旅行者が行く場所ではないので、ホテルにもほとんどWi-Fiはなかった。田舎町から乗り込んだバスの中から、日本に電話できたり、撮影したばかりの写真をSNSにアップするのも新鮮な体験だった。

 いちばん期待したのはグーグル翻訳だ。ジャールカンドではほとんど英語が通じない。私はヒンディーが話せない。ホテルに泊まったり、バスに乗ったりするのは言葉が通じなくてもなんとかなるが、村へ行って絵の意味を聞こうとすると、通じる言葉が必要になる。それでSIMを入れ、グーグル翻訳が使えるようにしたのだ。

 ところが、そのような場面ではまったく役に立たなかった。そもそもジャールカンドの村ではほとんどが電波の範囲外なのだ。都市にいないと携帯は使えないのだった。たまに電波が入って、スマホを差し出しても、村人はその意味がわからず返事をしてくれない。つまり、スマホが言葉を翻訳してくれる機械であるということを、こちらが理解させられなかった。ある程度こういうことに慣れていないと、この簡単な手順もなかなかわかってもらえない。バススタンドなどでスマホになれた人にそれをやると、素直にやってもらえたので、スマホになれているかどうかがポイントだ。

 たまにそれが成功しても簡単な言葉でない限り翻訳できない。翻訳しやすいように短いセンテンスで話せば機械も追いつくだろうが、普通の調子で長々と話されると無理なのだ。

 そういうわけで田舎の村ではほとんど役に立たなかったが、都市のバススタンドやホテル、レストランではある程度使える。しかし、もともとこのようなところはそんなものがなくてもたいした問題はないので、結局なくてもいいということになる。むしろ、このようなものに頼ると、今までなくてもなんとかなったのに、思わず頼ろうとする「退化」を引き起こすことが判明した。不思議なもんですね。

 田舎にスマホを持っていっていちばんよかった点は、前にも書いた通り、訪れた場所の位置確定だ。これについてはカメラ(オリンパスTG-5)にある追跡ログ機能を期待していたが、やってみた結果、操作が異常に面倒くさく、しかも時間がかかるので、あまり実用的とは思えない。

 もっとも手軽なのはグーグルマップだ。訪れた場所でグーグルマップを開き、現在地をマークするだけで位置が確定する。タイムラインを開けば、その日に移動した軌跡が記録されるのでこれで十分だった。

 多くの人が感じていらっしゃることだろうが、今やグーグルマップさえあれば、旅はなんとかなるのではないかと思う。

 今回行ったジャールカンドは、1250ページを超えるロンリープラネットのガイドブックさえ、州全体でわずか4ページしか情報がなく、掲載されている都市は州都のラーンチーのみ。それも極めておざなりな情報しかないような場所だ。それでもグーグルマップさえあればなんとかなるというのが今回の旅の実感だ。

 ホテルやレストランはマップ上で検索すれば、かなり細かく安い宿から高級ホテルが価格まで出てくる。地図上でホテルがたくさんありそうな場所に行けば、他にもいろいろ見つかるのでホテル探しは容易にできる。

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グーグルマップで出てくるラーンチーの一画。かなり多くのホテルが出てくる。

 おもしろかったのは店探しだ。僕は今回ジャールカンドの民俗画を見に行ったが、できれば紙に描かれた絵や、ジャールカンドの布を買いたかった。村には壁画はあっても、紙に描いた絵は売っていないのだ。紙の絵があることは知っていたのだが、それはどこに売っているのか。ジャールカンド独特の布はあるのか。

 というわけで、ラーンチーでグーグルマップに「Jahrkand tribe art textile」といった単語で検索すると、いろいろと地図上に出てくる。それを見て、ここと思ったところを数カ所訪ねてみることにしたのだが、行ってみると店ではなく、州政府の事務所だったりした。そこで店の場所を教えてもらってたどり着いたこともあった。行ってみないと、どういうところかまったくわからないというのも、なかなかおもしろいものだ。

 ラーンチーにはたいした見どころはないが、それでも検索すると、ロンリープラネットよりよほど多くの「見どころ情報」が出てくるし、それはたぶん他の都市でも同じだろう。旅行の一般情報では、もはや紙のガイドブックはネットには太刀打ちできない。紙のガイドブックなら、よほど特別な情報やネットにはない独自性がないと買う人はいなくなるかもしれない。

ジャールカンドへ壁画を探しに

 今回旅したのは、インドのジャールカンド州だ。そういっても、有名な観光地など何一つなく、ガイドブックにもまったく情報がないので、ほとんどの人はどこだかわからないだろうが、インド北部のビハール州から2000年に独立した比較的新しい州である。

 なぜこのジャールカンド州にいったのかというと、アーディバシー(先住民、部族民)の住民比率が高く、Wikiでは28%となっている。地元の人には半分以上がアーディバシーだといわれた)、こういうところは泥の壁に絵を描いているアーディバシーの家があるだろうと考えたからだ。

 もちろんネットでいろいろ探して、ジャールカンドにはどうもおもしろい壁画がありそうだという見当は付いていた。あとはまあ行ってみて探すだけ。巡りあえるかどうかは運次第だ。なんとかなるだろう、とりあえず行ってみよう! と飛行機に乗り込んだわけ。

 日本から北京経由でデリーへ飛び、そこからジャールカンド州の州都ラーンチーへ飛んだ。ラーンチーへ泊まらずに、そのままバスに乗り換えてハザリバーグという街へ。ここには周辺の村の壁画の収集、保全活動をしているプライベート美術館があるのをネットでチェックしてあったので、情報収集のためにまずここへ向かった。

 そうしたら、ここの人がわれわれを車に乗せて周辺の村々を巡ってくれ、何の苦労もなく様々な壁画を見ることができた(もちろん金は払いますけど)。これまでアーディバシーの壁画に出会うには、とにかく壁画がありそうな地域の、ホテルのありそうな都市に宿を取って、それからぼちぼち情報を集め、絵を探しまわるというのが常だったが、他の地域よりも情報の少ないジャールカンドで、あっけないぐらい簡単に壁画に出会えたのは幸運だった。

 村々を巡ってみて驚いたのは、これまで僕が見てきたマディア・プラデーシュ州、チャティースガル州、ラージャスターン州などより、はるかにバラエティに富んでおり、量が多いということだった。

 他の州ではアーディバシーの家の壁画は、だいたい一つの地域に一つのスタイルしかない。例えばラージャスターンのミーナー画にしろ、マディア・プラデーシュ州のゴンド画にしろ、マハーラシュトラ州のワルリー画にしろ、一つに地域ではその名を冠した同一のスタイルで描かれている。これまで僕はそれが当然だと思っていた。だが、ここでは村が異なると、まったく別のスタイルで壁画が描かれているのだ。僕の経験では、このようなことは非常に珍しく、美術館の人も「インドでもここだけだ」といっていた。

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ハザリバーグ周辺の村々の壁画。村によってこんなに絵のスタイルが変わる。

 インドに着いていきなり次々とすばらしい壁画に出会えて、もうこれ以上の壁画を見るのは無理だろうと思ったが、その後、あちこちまわった結果、予感通りハザリバーグ周辺の村々以上のものはジャールカンドで見つけることはできなかった。

 なぜそうなるのかといえば、このような村の壁画は、ただ伝統だからといって描き続けられるとは限らないからだ。このハザリバーグ周辺の村々は、美術館の保全活動によって支えられている。美術館の方が初めて村々に壁画があることを「発見」したのがおよそ20年前。たまたま通りかかった奥地の村でほんの数軒の家に描かれた壁画を「発見」した。それから美術館が村人を援助し、徐々に壁画が復活していったのだという。それらはほとんどすべて海外の援助によってまかなわれている(インド政府はまったく援助しないどころか、壁画が描かれる泥の家そのものを消滅させることに資金をつぎ込んでいる)

 日本人は誰もジャールカンドのことなど知らないけれど(まったく情報がないんだからしょうがないですけど)、こんなにすばらしい壁画あるところは世界でも珍しいと僕は断言しよう。世界遺産になってもおかしくないぐらいだ(が、ならないで欲しい)

 この詳しい話は、どこかでお話しする機会を設けたいと思う。いろいろ準備が必要なので、来春なるべく早くトークイベントや絵の展示を行いたいと思いますので、その節はよろしくお願いします。