インドのカレーは辛いのか?

 FACEBOOKツイッターで「インドを旅した方で、インドのカレーは辛かったですか?」という質問をしました。ご協力くださった方が、ありがとうございました。
 なぜ唐突にこんな質問をしたかというと、今、来年出す予定のエッセイを書いているところで、インドのカレーははたして辛いのかという素朴な疑問にぶつかったからです。
 というのも、僕はインドのカレーをそんなに辛いと思ったことがなかった。ぜんぜん辛くないとはさすがにいいませんが、すごく辛いとか、辛くて食べられないということはほとんどなかった。しかし、インドのカレーといえば辛いと相場が決まっていて、ネットや旅行記をみると、ほとんど辛くて食べられなかったという話ばかり。僕の味覚のほうがおかしいのかと思い、皆さんにお聞きしたのです。
 そこで、寄せられた答えの発表です。コメントや返信はオープンになっているので、すでに皆さんもご存知のことと思いますが、圧倒的に「辛くない」「そんなに辛くない」が多かった。
 FACEBOOKツイッターのコメント数は140。
 ・辛くない 61%
 ・そんなに辛くない 25%
 ・辛い 7%
 ・どっちもあり 7%
 僕の感覚がそれほど異常ではなかったことが証明されてよかった(笑)
 もちろん、辛かった人の感覚が異常だというわけではありません。辛いものも、辛くないものもあったという答えが7%ありましたし(これ当たり前ですけどね)、辛さに強いか弱いかでも答えは分かれます。
 インドよりタイ、スリランカブータンパキスタン、中国四川のほうがずっと辛いという方もかなりいました。僕もタイは激しく辛いと思います。スリランカもその次ぐらいに辛かった。
 インドの北と南では、北の方が辛い、南の方が辛いと意見が分かれました。僕の経験では北はちょっと辛く、南はぜんぜん辛くないという感覚です。ミールスなんかどこで食べてもまったく辛くなかった。
 安食堂と高級レストランでは辛さが違うという意見もあり、これもまたどっちが辛いか意見が分かれました。手軽な味付けとして安いチリを多用する安食堂のほうが辛いという意見。高級レストランで何を食べても容赦なく辛かったという体験もあり、よくわかりませんが、安食堂しか行ったことがない僕には、安食堂のターリーやミールスが辛かったという覚えはありません。辛さを求める場合は、カレーを食べながら、わざわざトウガラシをかじっていました。もっともトウガラシも、辛くないものもあるのですが。
 インドの食に詳しいアジアハンターの小林真樹さんにご意見をうかがいましたが、小林さんによれば、インドの中でも辛い料理を好む地域があり、例えばアーンドラプラデシュ州南部、タミルと州境を接するあたりのラヤラシーマ地方またはラヤラシーマ料理と呼ばれる料理はそうとう辛いそうです。
 おおまかにインドのカレーは辛かったですか? とお聞きしたので、この答えに正解はありません。どっちもあるに決まってます。辛いのか辛くないのか微妙な表現もありましたので、上の数字もおおまかなものです。だけど、圧倒的にインドのカレーは辛いという意見の多い世間のイメージ通りではないということが、これで少しは覆せたかもしれません。サンプル数は少ないですけど。

ゴーゴー・インド30年のイベントを終えて(2)物販部門

 会場費+運営費のメドは立ったが、利益が出るのは物販にかかっている。そういうわけで、半年間、僕は一心不乱にグッズおよび本をつくりつづけた。一応グラフィックデザイナーである僕は、本や雑誌のデザインはいつもやっているが、トートバッグやTシャツのデザインはあまりやらない。
 なので、畑違いの作業になるが、それはそれで楽しいものだ。最近はこういうものもすべてネットで注文制作できるようになっていて、作業自体はむずかしくはないが、はたして僕が自分好みのデザインをして売れるものなのか。そこが大問題。売れないものをつくっても在庫になるだけだ。
 というわけで、いくつかのものを友人知人関係に見せて意見を聞いた。だが、みなさん好みがばらばらすぎてあまり参考にならず、結局、僕がつくりたいようにつくる結果に(だいたいこれで失敗することになるのだが)。


 大本命は「旅行人」の復刊だ。実は、イベントの話がある前から「旅行人」を1号だけ復刊させることは決まっていたという話は前にも書いた。それ以外に、『旅日記』、「公式パンフレット」、『THE ART OF MEENA』とどしどし本をつくった。この半年間はまさに怒濤の日々だった。
 いちばん気楽だったのは「蚤の市」だ。この30年、方々から買い集めてきたお土産品を3分の2ぐらい並べた。値段をつけるたびに、小川京子から高すぎる! といわれて安くしたが、一度会場に運び込んだものをまた持ち帰るのは嫌だったので、安くても売れた方がいい。そういうわけで、かなり安くしたおかげなのか、8割ほどが売れた。




ここにあるのは売れ残ったものです(笑)
ここまでの写真は小池圭一さん





 なかでも、これはいったい誰が買うのか僕自身も見当がつかなかったのが、1999年にバングラデシュで買ったリキシャ・アートだ。リキシャの椅子の背などに貼られるビニールには様々な絵が描かれているが、それがパーツとしてリキシャ専門店で売られていた。そこで10枚ぐらい買ったのだ。
 図案も色もド派手なので、日本のご家庭に飾るとかなり異様な雰囲気を醸し出すことになる。なので、よほどの物好きでないと買う人はいないだろうと思ったが、やはりほとんど買う人はいなかった。関心を示した人が数人いて実際に買った人は2人。そのうちの1人はバングラデシュ専門の大学教授で、もう1人は僕の友人の女性で「変な物を買いました」というテーマの集まりに持ち寄るために買ったそうだ(笑)
写真◆前原利行さん



 ギャラリートーク最終回に、福岡アジア美術館のキュレーターである五十嵐里奈さんがいらっしゃった。この方はこういうものに興味があることは知っていたので、残ったものを全部プレゼントした。すると、五十嵐さんは僕に「何年にどこで買ったのですか?」と聞く。1999年にダッカのお店で買いましたと答えると、実はそれが貴重な資料になるという。
 近年、こういったリキシャ・アートはダッカで観光客向けによく売られているらしい。僕が買った絵は観光客向けではなく、リキシャ専門店で買ったものだが、それが大切なポイントだそうだ。僕が買ったものにはバングラデシュ独立戦争の生々しい絵が描かれているが、観光客向けのものには、そういったものは描かれない。だから、独立戦争の絵が、いつごろまでバングラデシュ人の関心になっていたかを示す重要な証拠物件になるのだという。
 五十嵐さんの論文にはこうある。
「リキシャ・ペインターは、独立までの苦しみと喜びを大衆に伝え、ともに祝うため、独立戦争の戦闘場面やパキスタン兵が女性に暴力を振るう場面、(中略)など、独立戦争にまつわる具体的な出来事や象徴的な人物、記念碑などを写実的に描いたのである」「リキシャ・ペインティングも壁画も、後世に残されることなく、消えていくイメージであり、(中略)現在のリキシャ・ペインティングには、独立戦争が描かれることが少ない」(政治・運動と視覚表現──循環するバングラデシュ独立戦争イメージ)
 なるほど〜。売る前に写真を撮っておけばよかった。それでもこのような方の元に絵が収まって大変よかったと思います。
 さて、それでその他の物品がどれほど売れたのかというと、めちゃくちゃ売れましたとはいかないが、まあまあといったところ(けっこう売れ残りました)。集計は終わっていないが、まあ赤字にはならない(はずだ)。引き続き、近日中に旅行人ウェブサイトで通販を開始しますので、みなさんどしどしお買い求めくださいますようお願い申し上げます。
 このイベントにご参加くださった皆様、お手伝いくださった友人たち、ご協力くださった皆様にあらためて深く感謝いたします。本当にありがとうございました。かなり大変なので、もうこういう大がかりなことはやらないと思います(笑)

写真◆小池圭一さん

ゴーゴー・インド30年のイベントを終えて(1)会場の問題

 今年の3月頃だったか、「『ゴーゴー・インド』が出てからちょうど30年になるから、なにか記念イベントを開きましょうよ」と前原利行さんに提案された。いまどき前原と聞けば民進党の党首だが、利行さんのほうは「旅行人ノート」や「地球の歩き方」などを手がけるガイドブック制作のプロで、その前は音楽番組の裏方も勤めていた経歴の持ち主だ。
 イベントをやるのはそれなりに大変なことはわかっている。単純に無料の個展をやったら会場費だけで赤字になる。なので、赤字を出さないためには、それなりの仕掛けと準備が必要になるのだ。それをやるのがけっこう大変だ。
 やりましょうやりましょうと強く誘われるうちに、それじゃやりますかという気持ちになり、まず会場を確保することから準備がスタートした。しかし、こういうイベント会場の予約は半年前だとすでに遅すぎるのが常識だそうで、なかなかこれといった会場が見つからなかった。ずるずると1か月がたち、田中真知さんに「早稲田奉仕園なんかいいんじゃない?」といわれて電話してみたところ、運よく空きがあり、ようやくあの会場が確保できた。
 ちょうど30年といったが、数えてみると31年たっていたことがあとからわかったが、まあほぼ30年ということで、タイトルを決め、トークイベントや物販というお決まりの案が並べられたが、問題はトークイベントで誰を呼ぶかということだった。トークイベントでどれだけ人を呼べるかで今回の収支が決まる。ここで客が入らないと悲惨な結果になるので、いの一番に上がったのが椎名誠さんだった。
 そりゃ椎名さんみたいな大物を呼べれば文句はない。受けてもらえるのかが大問題だ。だが、たまたま僕はそのちょっと前に、椎名さんからじきじきに電話をいただき、椎名さんのつくっている雑誌にエッセイを書いたばかりだった。まだ僕の電話にはその余韻が残っているぐらいだ。それで思い切って連絡したところ、こちらの緊張をよそに快くご承諾をいただけたというわけ。
 高野秀行さんも超売れっ子なので、引き受けていただけるか不安だったが、ご快諾をいただけてどっと安心した(高野さんは講演依頼がめちゃくちゃに多くて自分一人でマネージメントができなくなっているぐらい人気がある)。他にも何人か候補者があったのだが、優先順位というのは特になく、とにかくお願いしてみてダメだったら次の人に頼もうという突撃依頼だったので、ホールでのトークは椎名さんと高野さんに決めることができた。
 ギャラリーでのトークは事前の下見で観客数30人程度ということだった。こちらはもう仲間うちで十分大丈夫だろうということで、このイベントに協力してくれた松岡宏大さんの話を僕が個人的に聞きたかったこともあってお願いした。
 さて、ここでまた問題があった。いったい椎名さんや高野さんをお呼びすると何人の人が集まってくれるのかだ。もちろんお二人のことだから多くの人が来るだろう。だが、その「多く」というのは何人なんだ? これまで20〜30人ぐらいのトークイベントしかやったことのないわれわれには、それ以上は見当がつかないのだ。
 早稲田奉仕園でこのとき確保できる会場の最大観客数は100人。100人も人を集めたことがないからよくわからないが、椎名さんと高野さんだからこれでいいだろうと予約した。そしたら、告知後あっという間に満席になった。まだチラシも刷り上がっておらず、配るころには売り切れという事態になって、さすが二人の威力はすごいとあらためて感心した。200人の会場があれば、それも満席になっただろうになあ。ま、しゃーない。
 松岡さんと私のギャラリートークも結局満席になり、これですべての会場費+運営費がまかなえるメドがたったのでした。めでたしめでたし。



初めてつくったチケット。通常はもちろんこんなものはつくらないが、キャンセルが多いとますます参加人数が把握できないので、客にもこちらにも手間がかかるけどチケット前売り制にした。

小さな出版社の可能性3

 以前に矢萩多聞さんがいっていた、「小商い」出版とは、簡単に言えば売れる数しか部数をつくらないというやり方だ。きわめて単純なこの方法がこれまで不可能だったのは、印刷コストのせいだ。前々回に書いたことなので詳しくは繰り返さないが、部数が少ないと1冊当たりの単価が高くなって非現実的な売価になるのが常識だった。そこにネット印刷が出現して、劇的に印刷コストが下がったのだ。従来なら3000部以上でないと一般的に売れる売価にならなかったのが、利潤は多少減るけれど、300〜500部でもなんとかいけるようになった。

 300〜500部なんて同人誌のスケールだが、それは初版の数であって、売れさえすれば増刷できるので、可能性としては数万部だって可能だ。それがほぼ在庫なしで達成できる可能性があるというところが従来とは全く異なるのである。

 とはいえ、数万部を目指して本をつくるのはもはや現実的ではない。この方法が魅力なのは、自分の好きな本が100部からでもつくれるということだ。前にも書いたように、矢萩さんは10部からスタートした。たった10部からだったら印刷コストも在庫も何の問題もない。100部でもほぼ問題ない。

 では、何の問題もないかというと、問題はある。かなり大きな問題だ。まず、部数が少なすぎるので、制作コスト(印刷コストではない)が捻出できないということと、多くの書店に配本できないということだ。制作コストとは、著者の印税のほか、校正・編集費、デザインといった本の制作には欠かせない仕事にかかるコストだ。これらはもちろんただではない。100部全部売れても、このコストはまったく捻出できない。著者印税も例えば1500円の本で10%だったとして、100部では1万5000円にしかならない。これで1冊本を書けといっても無理だろう(だが現実には1500円の本を3000部つくっても著者印税は45万円にしかならず、それで生活するのは不可能なのは同じだが)。

 それに、100部しかつくらない本を全国の書店にばらまくことはもちろんできない。1000部だってむずかしい。だから、基本的にリアル書店で幅広く販売することは現実的に不可能なのだ。販売は基本的にネット書店、ネット販売ということになるが、矢萩さんのambooksがやっているような、書店との直取引なら書店販売も可能になる。委託にするか買い取りにするかは交渉次第というところだろう。

 一般的にいえばこの方法で制作できる本はかなり限定的になる。書き下ろしではなく、すでにネットで発表されたものとか、眠っていた原稿だ。本にできるチャンスがなかった作品なら、印税は少なくても本にしたいという作者はいるかもしれない。この場合も、校正・編集費は増刷を重ねないと出てこない。

 あるいは、イラストや写真であれば、校正・編集費はいくぶん軽減される。あとはこういう本の種類を増やしていき、売れた分だけ少しずつ増刷すれば、多くの在庫を持つ必要もないし、1冊の利潤は少なくても積み重なっていく(もちろん大儲けは絶対に無理ですけど)。

 一般的にはそういうことだが、僕自身はこのやりかたで本がつくれる。自分で原稿を書き、写真を撮り、デザインするので、その分の経費は無視できる。校正費用が捻出できればなんとかなるのだ。ここでようやく最初の話に戻るのだが、それでつくったのが、今回の「旅行人」であり、『旅日記』であり、『The Art of Meena』(ミーナーの写真集)だったというわけだ。

 「旅行人」は原稿料も校正費用もかかるが、今でも書店で直取り引きで売っていただけるし、ネットでも売れる。部数を減らしても印刷コストの軽減で元が取れるメドが立った。『旅日記』は400部、『The Art of Meena』は30部しかつくっていないが、これはどちらも(校正は少しやってもらったが)作り方としてはほぼ写真集なので、ほとんど僕一人で制作可能だった。

 『旅日記』は、たんに印刷しただけではなく、僕がインドで収集したラベルを別刷りして、それを本の中に貼り付けるというセルフ加工を施している。少部数の本は、こういうふうに自分たちの手で加工ができるということなのだ。それがおもしろい。これはカバーもなく、定価表示もバーコードもないので、基本的に書店販売はできない。なぜ書店販売を考えなかったかというと、自分たちで加工を施しているので、追加注文には簡単に応じられないのと、傷んだ本を返本されると廃棄するしかないからだ。

 実はこういう手づくり本のアイデアを僕は以前からあたためていた。他にもまだつくりたいアイデアがあるのだが、どうやったら実現できるかわからなかったのだ。それがようやくその糸口が見えてきた。

 前に出した掘井太朗さんの写真集『ディア・インディア』にもそういう加工が施してある。インドの列車の切符を印刷して貼り付け、出国スタンプを模したスタンプが巻末に押してある。結果的にコストがかかりすぎて成功とはいえなかったが、出来上がりには満足している。

 これからは少部数で、自分が好きな本を、1冊1冊手を加えながら制作していければと考えている。手間ひまはかかるが、というより、手間ひまをかけた本づくりをして、1冊1冊を大事に売るやりかたにしたい。あとは、それをどうやって読者に知ってもらえるかだ。もちろんこれがいちばん難しい。インターネットでツイッターFACEBOOKといったSNSなどで告知する以外に手はない(なにしろ宣言広告費はまったく出ないから)。だから、読者にツイッターFACEBOOKなどで見にきていただく以外にない。というわけなので、どうぞよろしくお願いします。




※『旅日記』、『The Art of Meena』などは、10月中旬から旅行人ウェブサイトで通販を開始します。詳細が決まり次第お知らせいたします。

FACEBOOKは登録しないと見ることはできません。登録後、旅行人か蔵前仁一で検索し、フォローするか、蔵前仁一に「友だちリクエストした」とメッセージしてください。メッセージがないと、詐欺リクエストとみなされてリクエストが承諾されません。かならずメッセージをお願いします。

ツイッターは登録しなくても見られます。ツイッターで旅行人か蔵前仁一を検索してください。登録してフォローすれば自動的にお知らせやツイートが流れてきます。お手数ですが、よろしくお願いします。

小さな出版社の可能性2

 「ゴーゴー・インド30年」イベントの準備もようやく峠を越え、チラシやポスターを作って配り、さまざまなグッズをつくり、イラストを額に入れてそれぞれのタイトルをつくり、といったもろもろのことをようやく完了した。それに「旅行人」を1号だけ復刊させ、僕が旅の最中に書いた『旅日記』を本にし、今度の「旅行人」に掲載できなかったミーナー画の小さな写真集も制作した。こんなに忙しかったことは「旅行人」を休刊にして以来ないことだった。今はちょっと気が抜けた状態だ。

 実はイベントをやる前から、「旅行人」を1号復刊させることは考えていた。イベントの企画が立ち上がったので、結果的にそれに間に合うように制作したが、去年ラージャスターンを旅して、ミーナー画を見てまわったので、その旅行記を発表するつもりでいた。それを単行本にするか、雑誌にするかで迷っていたが、結局「旅行人」にすることにした。

 それには3つの理由がある。まず第1は、ラージャスターンにミーナー画を見にいきましたという旅行記の単行本では、ほとんど売れる見込みがないということだ。1冊の単行本としては内容としても薄い。カラーページを多用して200ページ以上の単行本を制作し、高くても2000円程度で売るには、最低でも4000〜5000部は作らなくてはならない。それはかなり非現実的な数字なのだ。

 2番目の理由は、「旅行人」を復刊する方が読者が喜んでくれるし、僕以外の執筆者にも書いてもらえるということだ。単行本の執筆はけっこう孤独な作業だが、雑誌作りはいろいろな人に書いてもらえて作業としても楽しい。もちろん雑誌のほうがめんどくさい作業も増えるのだが、それでも自分も書き、他の人の原稿もいただき、レイアウトし、校正し、印刷所に入れて作り上げるという独特の充実感がある。自分には書けないインドやそれ以外の地域の話を読み、発表できるのは編集者としてはやはり楽しい作業だ。

 3番目の理由は、コストと流通の問題だ。これは前回のブログに書いたことと重なることだが、今は本当に本が売れない時代で、現実的にいって数千部を刷って取次経由で全国の書店に配本するのは、コストがかかるし、リスクが高すぎる。例えば4000部刷って半分しか売れないと、とうぜん2000部は返本される。読者はおそらく2000部の返本などご覧になったことはないと思うが、それが倉庫に積み上げてあるのを見ると茫然となる。1冊の厚みが15mmだとすると2000冊で30メートルだ。畳2畳1坪分(3.3平方m)に積み上げると1.6mの高さになる。重さは約800kg。普通の家だったらこれだけでいっぱいいっぱいだろう。

 とはいえ、実際のところ2000部の返本などたいしたことはない。だが、1冊につき2000部なので、それが50種類あると10万部の返本の山になるのだ。これは文字通り山ですよ。こうなると一目で見渡すことさえ不可能になるが、小さな出版社でもその程度の在庫を抱えていることは珍しくはない。うちだって最近まで13万冊の在庫があった。その維持費たるや毎月ん十万円となる。ただ在庫しておくだけで。

 そういうわけで、売れるかもしれないという幻想のような期待を込めて印刷しても、ただただ返本の山が大きくなっていき、やがて断裁せざるをえなくなり、ただ紙くずになるだけなのだ。その徒労感というか、空しさは売れない版元でないと理解できないだろう。いったい何のために本を作っているのかという根源的な疑問におちいる。

 というわけで、返本があるかぎり、何千部も刷る単行本は現実的にいって制作できない。つまり、本を制作する→取次にまわす→全国の書店に委託配本する、という従来のパターンは、数千部刷ってたくさん売れるという前提がないと機能しない仕組みなのだ。読者の中にはご存じない方もいらっしゃるかもしれないので念のために書いておくと、書店は出版社から本を買ってくれるわけではなく、書店の棚を貸してくれるだけなのだ。これを委託販売という。だから一定期間売れない本は出版社に返本されてしまう。

 旅行人ではもうほとんど従来のような新刊を出していないが、それはそのような理由による。出しても返本の山が大きくなるような出版活動は不可能なのだ。そこに一筋の光のように差した方法が前回のブログで書いた「小商い」出版だった。長くなったので、続きは次回に。

小さな出版社の可能性

 5月20日日本橋で行なわれた「本との土曜日」に参加した。これはインド関係の本やグッズを売る小さな市のような企画だった。僕は版元として出店したが、著者、書店として参加した方々もいた。
 そこで、『持ち帰りたいインド: KAILASとめぐる雑貨と暮らしの旅』(誠文堂新光社)の著者、松岡宏大さんが、3日でつくって持ってきましたといって文庫本サイズの本を見せてくれた。『ひとりみんぱく123』という本で、松岡さんのコレクションを自分で撮影して(彼はカメラマンでもある)まとめた小さな写真集だ。美しい装幀は矢萩多聞さんによるデザインで、シンプルな作りだが、144ページ、オールカラー、価格は1500円。
 これだけだと表面上はごく普通の本でしかないが、驚くべきは、この本はたった10部しか作られていないということだ。1000部でも100部でもない。たった10部!

『スーパルマドゥライ』(武田尋善)は72p初版20部で増刷決定したそうです。
 たった10部しか印刷しないで、カラー144ページを1500円で販売して利潤が出るのかといえば、少し出るのだという。オンデマンド印刷なので、10部でも100部でも1部あたりの単価は変わらないそうで、だから10部作ってみて売れたらまた刷ればいいという考え方なのだ。
 なるほど。それなら売れない在庫を抱えるリスクはほぼない。イベントのトークで矢萩さんがおっしゃっていたが「出版の小商い」という考え方なのだ。
 ある意味で、同人誌とやり方は変わらないが、矢萩さんはこの文庫サイズの本を「Ambooks」というシリーズにしているようだ。そこらへんの詳しい話はまだよくわからないのだが、矢萩さんはこのシリーズを「たくさんつくってたくさん売るのではなく、ちいさくささやかであっても、欲しい人に届く本にしたい」と書いている。最初のわずか10部のために、プロのデザイナーである矢萩さんは手抜きのない実に美しいデザインを施している。普通の装幀家はこんなことを仕事としてはやらない(やれない)だろう。
 同人誌の場合は、友人でもない限りプロのデザイナーがデザインしてくれることはないし、編集や校正・校閲もない。だから、やっぱり同人誌(あるいは出版社を通さない自費出版)は見た目もそうなるし、内容もそれなりのものにしかならない(自分で金を出して作って売るのだからそれでいいのだが)。
 Ambooksのようなやり方と、同人誌・自費出版の大きな違いは、このようにプロのデザイナーがデザインするということと、誰のものでも金さえ出せば作るというわけではないということだろう。矢萩さんがそこで選別しているはずだ。そこで大きな違いが出る。Ambooksと銘打たれた本のクオリティが担保される。このやり方で重要なのは、デザイナー、カメラマン、イラストレーターなどといったプロが参加しているということだ。彼らの強いこだわりがこのようなことを実現させる。
 このイベントで僕がいちばんショックを受けたのは、このAmbooksだった。実を言うと、僕もこれまでのように数千部作って取次に持ち込み、全国の書店にばらまくというやり方にうんざりしていた。金もかかるし、在庫も抱え込む。たいして儲かるわけでもないのにリスクだけがやたらに大きい。こういったやり方だと、数千部売れるような本しか作れないということになる。本当に自分の好きな本を好きなように作って、それを数千部売ろうなどというのは非現実的な話だ。インドの奥地のほとんどの日本人が知らないような壁画の写真集なんていったい何人の人が欲しがる? ま、50人ぐらいかな(笑) だから本にするのは無理だなあと思っていたのだけど、このやり方ならできるのだ。まさに矢萩さんがいうように、本当に読みたい人に、見て欲しい人に届けばじゅうぶんだ。旅行人も、これからそういった小さな、ますます小さな出版社になっていきたいなあ。

Ambooksのサイトはただいま準備中とのことです。→ http://am.tamon.in

最悪の宿

 今日も机周りや本棚を整理している。
 引き出しに入っていた写真の束から、はらりとこの写真が出てきた。思い出すのもおぞましい宿の写真だ。たしか1990年ごろだったのではないかと思う。ネパールからスナウリ国境を越えてインドへ入ったときだ。国境に到着したのが遅くなり、国境から少し行ったナウタンワという街で一泊することになった。なかなかホテルが見つからず、ようやく見つけたのがここだった。
 そこは薄汚れた連れ込み宿で、それまでさんざん汚いホテルには泊まってきたが、ここほど汚いホテルはない。インドだけでなくアフリカでもここほどひどいホテルは覚えがない。つまり、僕の旅行史上最低の宿ということになる。
 夜、妻がトイレに行き、悲鳴を上げて帰ってきた。灯りもないトイレの戸を開け、懐中電灯で照らすと、壁一面に黒いものがざわざわと動いたというのだ。ぜったいゴキブリだという。無数のゴキブリが壁一面にはりついていたようだが、わざわざ確認しに行く気にはなれなかった。妻はついにトイレに行けず、一晩がまんした。
 シーツも汚く、室内は湿ってかび臭く、さすがにここで眠ることはできなかった。これまで数えきれないほど安宿に泊まり歩いてきたが、その多くはすでに忘れてさっている。だが、ここだけはこうやって書けるぐらい今でも覚えているのだから、最悪でも心に残るホテルだということか。心に残らなくていいんだけど。